津田沼教会 牧師のメッセージ
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「あなたのところに来られる王」(マタイ21:1~12)
マタイ21:1-11、2007・12・02、待降節第1主日(典礼色―紫―)
イザヤ書2:1-5、ローマの信徒への手紙13:11-14

マタイ21:1~11
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
 主の名によって来られる方に、祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」
 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。



「あなたの所に来られる王」(マタイ21:1~11)
 本日から、新しい教会暦の一年に、すなわち、待降節、アドベントに入ります。アドベントとは、アドベンチャーなどの言葉にもつながる言葉で、ラテン語で「到来」を意味します。それは、第1の到来である2000年ほど前に生まれた主の降誕祭に備えると共に、今年もまた待つ再臨の主、再来の主の到来に待ち備える時でもあります。
さて、私たちは、本日から、今までのC年の福音であったルカ福音書に代わって、3年サイクルのA年に戻り、新しくマタイを中心の福音書として読んでいきます。もちろん、教会暦の多様な歩みに応じて、時々ヨハネ福音書やルカ福音書を用いるなど例外はありますが、基本的にはマタイが毎週の日曜日に読まれるのです。
さて、待降節第1主日にルーテル教会の暦においては常に定まっている個所は、主イエスのエルサレム入城の記事であります。本日のマタイ21:1-11から、しばらくご一緒に、福音に耳を傾けてみましょう。本日の直前の記事は、盲人の二人がダビデの子よ、私たちを憐れんでくださいというエリコからエルサレムに向かう時に起こった出来事が記されています。そして、本日の福音の記事にも「ダビデの子にホサナ」、これは、ダビデの子、すなわち、王であるお方、事実としてはソロモンがダビデ王の地位を受け継いだのでありますが、ここでは「ユダヤ人のまことの王」であるお方がたたえられるように群衆が喝采の声をあげたというものであります。
もう一度、本日の記事を思い起こしてみましょう。一行がエルサレムに近づいたとき、そしてベトファゲへと、オリーブ山へと彼らがやって来たときに、主は、向こうの村、多分ベトファゲへと二人の弟子を次のように、言って送り出すのであります。向こうの村へ行きなさい。そうすると、あなた方は、つながれている雌ろばとその子ろばを見出すであろう。
マタイでは、召し出しを受けるろばは親子の2頭なのであります。これはなぜでありましょうか。ゼカリヤ書9:9には雌ろばの子に乗ってとありますが、マタイはなぜその両方を連れてきたと記しているのでしょうか。
さて、主イエスは、あなたがたは、それらを私のところに、ほどいて、連れてきなさい、と言われます。もし誰かが何か言ったら、現分を見ますと「それらの主が必要を持っている」と言いなさいと記されているのです。「それらの主」とは、昔アダム、人類のはじめの人アダムが神に祝福されて、あらゆる生き物を治めよと言われて治めていたように、新しいアダムとして来られた主イエスご自身が自ら「彼らの主である私が必要を持っている」と言われるのであります。そして主は、そうあなた方が答えれば、「彼は彼らを送ってくれるであろう」と保証して赴かせるのであります。昔イエスの時代には、王の徴用に応じて、あちらでは、民衆はろば等をかりだされることがしばしばあったのです。マタイは、他の福音書記者たちとは違って、親子のろばを連れて来させます。それはなぜでしょうか。
それについては、昔モーセが、エジプトに妻と子を連れて奴隷となっていたイスラエルの民のもとに戻っていくとき、ろばどもに乗せて戻ってきたと伝えられていることを思い起こさせます。
主イエスは新しいモーセ、そしてモーセもある意味では王と考えられもしていましたが、ここでは主イエスこそ、モーセにもまさる「ユダヤ人のまことの王として」マタイは考えているのです。
さて、二人の弟子たちは出て行くと主が言われたとおりにして、さっそく親子のろばを連れてきます。そして、二人がろばどもの上に服を敷くと主イエスはその上ににお乗りになる、お座りになるのです。古いエルサレム入城のフレスコ画には、主イエスが、武人のような、またがる乗り方ではなくて、ろばに女乗りになっている絵が描かれているものがあります。主はまことの平和をもたらされる王であるからであります。
ところで、後になると、ろばは愚かな、強情な動物のように考えられる時代もあるのですが、主イエスの時代ではそうではなかったのであります。しばしば、パレスチナの当時の世界では、ろばが王など高貴な人の乗り物として出てくるのです。
さて、マタイは、主が親子のろばにお座りになったのは、旧約の預言者の言葉が成就するためであったと記します。シオンの娘にあなた方は言いなさい。あなたの王があなたのもとにやってこられる。柔和でろばと荷を負うその子ろばに乗って。これは、ゼカリア書9:9からとイザヤ書などをマタイが編集して引用したのであります。柔和なまことの王として、王であるお方が、自ら私たち一人ひとりのもとに、おいでくださるとマタイは旧約の預言の言葉の成就として、本日の出来事を見ているのであります。一時的な支配者、権力者として時がたてば歴史のかなたに消え去る通常の権力者ではなく永遠に私たちをご支配なさる王、しかも柔和な、低い、やがて私たちの罪のために十字架にまでおかかりになる王すなわち、メシア、キリストとして私たち一人一人のもとに来られたのであります。
そして、そのお方は終末のとき、再臨のときにも、私たちを救われると共に一人一人をお裁きになる方としていつの日か来られるのであります。
さて、主のエルサレム入城のこの時、前を行く群衆もあとを行く群衆もこう語りながら叫んでいました。「ダビデの子にホサナ、主のみ名によってこられる方に祝福があるように、いとたかきところで、ホサナ。」
これは、メシアにかかわる詩編と考えられた詩編118編の25節、26節を用いて、マタイが編集している群衆の言葉であります。しかしこの時、全エルサレムの人々はほめたたえるどころか、「これはいったい誰なのか」と混乱し、質問するのみでありました。おそらくガリラヤからの巡礼者たちであったであろう群衆は、「この方こそ、ガリラヤのナザレ出身のかの預言者イエスである」と主イエスが、モーセのような預言者、否モーセを上回る、待たれていた新しい預言者であることを高らかに宣言するのであります。私たちは、このまことの王であり、メシアである方が再び、このときのようにして、来られるのを待ち備えたいものであります。その方は、私たちの罪の多い、弱さをかかえた現実の中に謙遜と柔和をそなえながら、自ら進んで入ってきてくださる方であります。クリスマスを前にして、私たちは、心から、「主の名によって来られるこの方がほめたたえられるように」と、この待降節の期間、心して待ち備えたいものであります。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなた方を守るように。
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2007/12/02(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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