津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主の憐れみを待ち望む」(ルカ20:27~40)内海望牧師
ルカ20:27-40、2007・11・18、聖霊降臨後第25主日(典礼色―緑―)
マラキ書3:19-20、ユダの手紙17-25

ルカによる福音書20:27~40
 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。



説教「主の憐れみを待ち望みつつ」(ルカ20:27~40)内海望牧師

ここでサドカイ派の人々の質問と、イエスさまの答の間には大きなずれがあります。どこに問題があるのでしょうか。
 それは、サドカイ派の人々が「復活のいのち」ということを自分の知識、経験の延長上に置いて問いを発しているからです。言い換えるなら、「自分の尺度、物指し」で神さまのご計画を推測しようとしているのです。神さまが人知を遥かに越えた愛のみ心で「復活のいのち」を私たちのために用意してくださっているというのに、それを自分の理解出来る範囲に小さい存在にしてしまうのです。反対に、私たちはあまりにも人間の知恵を過大評価しているのです。「キリストを矮小化するなかれ」植村正久の説教題。
 
この点に関してルターの大変興味深い手紙があります。一人の女性が「予定説」に苦しんでいました。自分が永遠のいのちへと選ばれた人間なのか、棄てられてしまうのかという不安です。このような不安は、私たちの心の奥底にもあります。
この不安の中にある女性に対して、ルターは「あなたのように苦しむのは、神さまの尊厳を探ろうとする空しい試みであり、神さまの隠された摂理を奪い去ろうとするものなのだ」と女性いの思い煩い、不安を越権行為であると厳しく戒めます。
私たちにとっては、私たちのために十字架につけられ、復活のいのちを約束して下さったイエスさまがいらっしゃる、これで充分ではないかとルターは言うのです。イエスさまの愛に信頼し、すべてを委ね、あなたの不安は全部捨ててしまいなさいと励ますのです。
ペトロ一5:7(p434)には「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからである」とあります。「いて」という言葉の意味は、ある瞬間だけ心にかけて下さる、ということでなく「生涯に渉ってずっと」ということです。このことを信じ、神さまを信頼し、全てを委ねることが信仰だとルターはいうのです。ルターは、この女性に対して、厳しく戒めることによって、かえって神さまを信頼する者の喜び、慰めを与えたのです。
このように考えると、サドカイ派の人々が、自分の理解で復活を論じ、イエスさまを試みる質問を行うのは、神さまの御業を人間の理解の範囲に矮小化することであり、何よりも神さまの尊厳を冒涜することになるのです。

イエスさまは、「神は死んだ者の神でなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」とおっしゃいます。これは、「神さまは、生きている者と、死んだ者との主である」という意味です。私たちは毎週「使徒信条」によって信仰の告白を行っています。そこにはイエスさまは、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し」と明瞭に書かれています。つまり、イエスさまは「陰府の世界」(死者の世界)にまで下って福音を伝え、復活された方なのです。イエスさまは、私たちの生死何れの時も、「私たちと共に」いて下さる方なのです。パウロも、「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(ローマ14:9.P.294)と語っています。そこには死はなく、復活のいのちのみがあるのです。これが、「あらゆる思い煩いを、このイエス・キリストの十字架に示されている神さまの愛にお任せしなさい」という言葉の内容です。
しかも、イエスさまは、十字架の苦しみと死を経験された方として、私たちのあらゆる痛みに共感され、苦しみを思いやることが出来る方なのです。まさに、「私たちのことを、心にかけていて下さる方なのです。

今日の第二の日課に素晴らしい言葉があります。「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へと導いてくださる、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」(ユダ20-21.P.451)。

人生を歩み通すのは、決して容易いことではありません。思いがけないことが起こります。喜びの時、失意の時、涙が涸れない時、様々です。しかし、どのような時にも、このサドカイ派たちのように、神さまの心を探るようなことを考えず、ただ「私たちのことを心にかけて下さるイエスさまが共にいて下さるという信頼を持ってキリストの憐れみを待ち望みつつ生きることこそ肝要です。その時、不安は消え去り、私たちの心には希望が与えられます。このように、「主の憐れみを待ち望みつつ生きること」が出来るのは信仰者の喜びであり特権です。
この喜び、希望を分かち合う群れこそが教会なのです。そのような群れとして歩みましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。
キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。









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2007/11/18(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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