津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神から預けられている人生」(ルカ19:11~27)
ルカ19:11-27、2007・11・11、聖霊降臨後第24主日(典礼色―緑―)
歴代史上29:10-13、テサロニケの信徒への手紙二2:13-3:5

ルカによる福音書19:11~27
 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付でそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」


説教「神から預けられている人生」(ルカ19:11~27)
 
本日を含めて、ルカ福音書を中心に読んできました教会暦C年も残すところ3回となりました。本日の個所は、ルカ福音書19:11-27であります。私は説教題を「神から預けられている人生」と付けておきましたが、本日の記事は、主イエスの弟子であるということは何を意味するかということと共に、「拒まれた王であるキリスト」という二つの主題が含まれています。マタイによる福音書25章にあるタラントンの譬えを、私たちはすぐに、本日の個所を読むとき、思い起こすのですが、本日の福音書の記事には主イエスが、特にユダヤ人の指導者たちによって拒まれるというもう一つのテーマが入っているのであり、そこを見逃しては、本日の福音の意味を正しく理解することはできないのであります。今日の記事をしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 本日の話は、まだ、あるいはエリコにおられる間に、弟子だけではなく人々に向かって語ったものであります。主イエスは、エルサレムに近づいておられ、人々が、神の国がすぐにも見えるようになりつつあると考えていたのであります。待たれていた神の国が目に見える形で今にも現れると人々は期待していたのであります。
それでイエスが人々がエリコにあったザアカイの家で救いについてなど主イエスに耳を傾けていたときに、それに加えて本日の譬えを語られたのであります。それは、こういうものでありました。
ある高貴な生まれの人が遠い地方に王位を得て戻ってくるために、旅に出て行こうとするとき、10人の奴隷、しもべを呼び出して彼らに一人に1ムナずつ渡してそれで、商売をするように、貿易、銀行業のようなことや商品交換などをして稼ぐようにまかせて、言いつけて、出発したのであります。ところが、彼の国民たち、臣民たちは、彼を憎んでいたので、大使、使節をあとから送って「我々はその者を我々の王にいただきたくない」と意思を伝えたのであります。
これは、アルケラオがローマに王位を得ようとして赴いたときに、同じような史実があったと言われています。ある記録では50人ほどの使節を後から送って彼に王の位を与えることに対して反対したということであります。主イエスは、人々の知っているその出来事を使ってこの譬えをなさっているのかもしれません。しかし、ともかくも、王位を得て、その人は王となって帰ってきました。そして、自分が渡していた1ムナずつでどのように稼いだかを知ろうと10人を呼び出しました。すると、第1の者は、1ムナで、10ムナを、第2の者は5ムナをそれぞれ稼いだと申告するのです。主人は、よくやった、あなた方はよい僕だ、小さな事にあなた方は忠実であったから、あなた方には10の町、あるいは5の町を治めさせようと言います。私たちは、自分たちに与えられているそれぞれの小さな務めに精一杯忠実であることが主から求められており、それぞれの人生に預けられているムナを運用してできる限りのことをすれば十分なのであります。
さて、ところが、さらに別の者は、ご主人様、このハンカチ、布の中にあなたの1ムナをしまっておきました。あなたは、厳しい方で置かないところからも取り上げ、蒔かないところからも刈り取る方だと知っていたからですと主人に申し出て抗弁します。
主人は、悪い僕だ。それなら、銀行に預けておくべきであったと言い、そばの者たちにこの1ムナを10ムナ持っている者に与えよといいます。彼らがもう既にあの僕は10ムナ持っていますと答えると、言っておくが持っている者はみなさらに与えられ、持たない者は持っているものまで取り上げられると言うのです。そして、王となった主人は、私が王となることを望まなかった敵どもを、私の前で切り殺せというのです。私たちは、主がいつ再び来られるのかを知りません。しかし、主は必ず来られ、私たちの功罪に応じて、報いか罰かで応じられるのであります。
私たちは、愛の神であると共に裁きの神でもある主を忘れることなく、しかしなお、主の報い、報酬は大きいことを信じて、主の恵みを仰ぎ望みながら1週間を歩みたいものであります。
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあって、あなた方を守るように。アーメン。


 

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2007/11/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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