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津田沼教会 牧師のメッセージ
「私たちはだれに仕えるのか」(ヨシュア記24:14~24)
ヨシュア記24:14-24、2007・10・28、宗教改革主日(典礼色―赤―)
コリントの信徒への手紙1:10-18、マタイによる福音書5:1-6

ヨシュア記24:14~24
 「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
 民は答えた。
 「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」
 ヨシュアはしかし、民に言った。
 「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くされる。」
 民がヨシュアに、「いいえ、わたしたちは主を礼拝します」と言うと、ヨシュアは民に言った。
 「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。」
 彼らが、「そのとおり、わたしたちが証人です」と答えると、「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」と勧めた。
 民はヨシュアに答えた。
 「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」



説教「私たちはだれに仕えるのか」(ヨシュア記24:14~24)

本日は宗教改革主日であります。ルターが1517年の10月31日、すなわち、全聖徒の日である11月1日の前日に95ヶ条の提題をヴィッテンベルクの城教会の門扉に掲げた日を覚え、その時から本格的に宗教改革が始まることになったことを記念して特に世界中のプロテスタントの多くの教会で、本日この礼拝が守られているのであります。
 今日は、いつものように福音書の日課から、ではなくて、旧約聖書の日課、ヨシュア記の24:14-24の部分について、宗教改革を思い起こしながら、しばらくご一緒に瞑想してみたいと思います。
 今日のヨシュア記の部分は、ヨシュア記の最後に近い部分であり、ヨシュアが年老いて、この地上を去る前に、イスラエルの民やその指導者たちに向かって語った言葉、また、この民の応答の言葉からなっています。
ヨシュアはその民に向かって言いました。「あなた方は主を畏れ、真心と真実とにおいて主に従いなさい。あなた方は、川の向こうで、また、エジプトであなた方の父祖が仕えたように外国の神々に仕えてはならない」とまず語るのであります。
私たちの信仰はどうでありましょうか。私たちは、幸いにして、聖書の神、そして、主イエスと彼を遣わされた父なる神、それは本日のイスラエルの聖なる神、主でもありますが、その方を信じている者であります。しかし、昔も今も何と多くの外国の神々、異教の神、すなわち私たちを造られた方でもなく、また、罪から、あるいはエジプトの奴隷の状態から贖いだしたのでもない神、あるいはそれに準じるものに取り囲まれていることでしょうか。
ルターは、「あなたがその心を置き、傾けるものが、たとえば、金銭や財産や快楽のようなものであっても、それがあなたの神になりかわるのである」というふうに言っています。   
しかし、ここで、ヨシュアは、今一度民に向かって、「多くの神々に囲まれ、主なるイスラエルの神から離れていった父祖たちにならうのなら、ならうがいい」と促します。また、「今や自分たちの住んでいるカナンの地の先住民であったアモリ人の神や川の向こう、それはユーフラテスの向こうの神々などでもあったでしょうが、それらに従いたいならば、従うがよい、ただし、私と私の家は主に従います」と明言します。
ヨシュアは自分と自分の家族は出エジプトを導かれた主なる神を一族で守ると宣言するのです。私たちの信仰は、一人で家に閉じこもって、聖書を読むようなものではなく、民として教会に出席し、さらにはできれば家族全体で、仕えるのが旧約聖書の時代以来、本来の聖書の民であります。
さて、本日のこの日課には、「仕える」、あるいは「礼拝する」という言葉が繰り返し出てきますが、それは働く、耕す、あるいはだれかの奴隷になるといった意味を持ったアーバドという言葉です。私たちは神のために働き、耕し、そのしもべとなるのであります。礼拝とは神が私たちに仕えてくださるというものでありますが、それに対して私たちもそれに答えて神さまに仕える、礼拝するという一面もあるものです。そして、私たちは神に仕える、すなわち、神の奴隷となり、仕えるか、あるいは、サタン、まことの神ならざるものの奴隷になるかそのいずれかしかないのであります。あれか、これかであります。ルターは、「私たちは、キリストが私たちの御者になるか、サタンが私たちの御者になるか、そのいずれかしかでない馬車のようなものである」と言いました。
さて、ヨシュアに対して、民は「私たちは主に仕えます、主なる私たちの神こそ、私たちをエジプトの地から携え上られた方であり、多くの国民の中を通っていくのを見張られ、守られた方だからです」と言います。
しかし、ヨシュアは「あなた方は主に仕えることはできないだろう、主は聖なる方であり、熱情の神、妬み深い神であるからあなた方の背きの罪ととがとを赦されないであろうから」と言います。聖書の神は、まず聖なる方であり、私たちが思いと心と霊とを尽くして自分を純一の心でもって全精力をかけて愛することをお求めになる方であり、民がご自分を捨て、離れて他の神を礼拝するのを妬まれる神であります。
ある人が、キリスト教の神について求道をしているときに、ふと「この神さまは本当に愛されることを喜ぶ神さまなのやね」と感慨深く言われたのを思い出します。
さて、しかし、民は再びはっきりと「私たちは主を見捨てず、離れず、主に従います」と断言します。ヨシュアは、「それではあなた方が、そのことの証人である」と言い、民も「私たちがその証人です」と答えます。主なる神は、祝福か呪いかそのいずれかを必ずもたらされる神であります。私たちも、もう一度この時の民のように、私たちの信仰を点検したいと思います。
確かに私たちは、すぐに主なる神から離れ易い存在ですが、この時の民は主につき従うことを約束しました。私たちも、私たちの主なる神に絶えず固着して、また、その神の贖いを完成した独り子である主イエスの言葉に日々従いながら、本日の民と同じように、他の違った神ではないお方、まことの主なる神のために、礼拝ごとのこれからの1週間を働き、耕し、そしてまた主日に集まって礼拝し、仕えるしもべとされていきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。



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2007/10/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)