津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「今を生きる力としての祈り」(ルカ18:1~8)宇野正徳牧師
ルカ18:1-8、2007・10・21、聖霊降臨後第21主日(典礼色―緑―)
創世記32:23-31、テモテへの手紙3:14-4:5

ルカによる福音書18:1~8
 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判してやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」



説教「今を生きる力としての祈り」(ルカ18:1~8)宇野正徳牧師
 
1. 祈りの教え
 ルカ18章の「やもめと裁判官のたとえ」を通し「今を生きる力としての祈り』についてご一緒に考えてみたいと思います。
 簡単にこのたとえを振り返ってみたいと思います。
 ある町に、神を畏れず、人を人とも思わない裁判官がいました。独善的で人の意見を聞かない、その時の気分次第で裁定を下す、自分の裁きは最高だと自任している、大変に厄介で扱いにくい裁判官でした。
 その裁判官の心といいますか人間性やその良心を目覚めさせた人がいたのです。名もなく力もないひとりのやもめです。「神を畏れず、人を人とも思わない裁判官」と「名もなく力もないやもめ」との好対照な出会い。その裁判官の心を動かしたのは何だったのでしょうか。
 やもめは自らの訴訟に関わる問題を裁判官のところに持ち込んだのですが、裁判官ははじめからその訴えを取り上げる気はなく門前払いをしたのです。しかし、このやもめは、その不当な扱いにもへこたれずに自分の訴えが取り上げられるまではと訴え続けたのです。普通でしたら、このような問題ある裁判官であれば、何を訴えてもまともに聞いてはもらえないと最初から諦めてしまうものですが、このやもめは違いました。追い返されても追い返されても執拗に食い下がったのです。
 その度重なる執拗な訴えに、はじめは黙殺していた裁判官も、ついには根負けし、やもめの訴えを聞くことにしたのです。
 曰く、「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう」・・この裁判官の気持ちを動かしたのは、あきらめずに何度も何度も裁判官のところに足を運び、根気よく訴え続けたやもめの執念でした。
 主イエスはこのたとえを通して「祈ることの大切さ」を教えられたのです。
 「祈り」は、本来は、神への信頼と従順(神に聞き従うこと)に基づいて行うものですから、祈りが聞かれるか、聞かれないかにかかわらず祈り続けるものですが、わたしたちはせっかちに早急の答を求める、その求める答がなかなかに返ってこない、返ってきても求めるものとは違う答であると、祈りそのものに疑問を持つのです。祈りにどれほどの効用や効果があるのかと。
 主イエスは、弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と教えられましたが、その言葉の裏には、弟子たちの祈りに対する弱気や迷いが見え隠れしていたからではないでしょうか。はじめての働きが思うように進まない、困難さにぶつかり迷う、良い成果があがらない、そういうことへの不安と焦り。つい意気消沈し、落ち込む。その様子を見た主イエスが、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と教えられたのではないでしょうか。祈りは、父なる神への信頼と従順に基づくものですから、意気消沈し、落ち込むことは、神への信頼を欠くことにもなるのです。
 やもめのように、自分の願いが聞かれなくても、叶えられるまで願い続ける・・
 一回、二回の願いで諦めるのではなく・・何度も願う・・・それが祈りであるというのです。祈りに対する期待薄や諦めの早さは禁物です。

2. 人を生かす祈り
 主イエスは祈りの人でした。どのようなときにも、父なる神への祈りを欠かすことはありませんでした。
 その祈る主イエスの姿勢をマルコは、こんなふうに描いています。
「朝早くまだ暗いうちに、主イエスは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)。この記事は、おそらくここだけではなく、主イエスの日常のお姿であったと思われます。いつどこにいても、どのようなときも主イエスは、「朝早くまだ暗いうちに、主イエスは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた」。弟子たちは主イエスのこのような祈りに支えられていたのです。

  また主イエスは弟子たちにこう教えられました。
「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる」(マタイ7:7)。
「ごんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が、地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(マタイ18:19)。
 そしてその祈りの集大成として「主の祈り」があります。
「天にまします我らの父よ、み名を崇めさせたまえ。み国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ・・・」と、これほど凝縮した祈りはないと言えます。
 この「主の祈り」について鈴木正久牧師は、こう語っています。
「もしあなたの教えがなかったら、わたしたちは祈りえず、苦しみのない日には無自覚に時を過ごし、悩みがおそってくる日にはただうめき、また呪うしかしえないでしょう。そしてわたしたちの生活は亡びてゆきます。主よ、日々に、あらゆる時に、あなたの祈りを祈る恵みをお与えください」(「主よ、み国を」から)
 「もしあなたの教えがなかったら」と、わたしたちキリスト者にとって主の祈りがどのような意味を持つかを先ず説き明かしています。
 「苦しみのない日には」、つまり毎日が、満たされ恵まれた生活を送っているときには、神すら忘れ、祈りは自分には無関係であるような顔をし、手に負えない問題や悩み、「苦しみが起こる」と、うめき声を挙げ、神の助けを求め、期待する答が返ってこないと神を呪
う、それが私どもの祈りです。ルターが「主の祈り」は祈りの中でも最大の殉教者であると言ったことは、決してオーバーな表現ではないと言えます。
 祈りが生活の中でどのように生かされていたか。その事例として、元国連事務総長のダグ・ハマーショルド氏のことを紹介したいと思います。
 少し古いお話しで恐縮ですが、昨今、この方の名を知っている人がいるのかどうか、国連の事務総長という思い責任と多忙を極めた職務の中で同氏は、非常に「デボーショナルな人であった」と言われています。「デボーショナルは人」とは霊的で敬虔な人、祈りの人であったということです。(古屋安雄著「プロテスタント病と現代」)
 ハマーショルド氏は。、1953年から1961年まで国連事務総長の要職にありました。1950年代といえば第二次世界大戦の直後でもあり、世界はまだ混乱し、その収束に向け国連が動いていました。植民地支配からの脱却、それに伴う独立運動の激化が各地で起こっていました。中近東ではイスラエルとアラブ諸国の対決の危機、東ヨーロッパでは共産主義体制からの独立を願うハンガリーに対するソ連の武力介入、アフリカではベルギーによるコンゴへの軍事介入等々、そういう紛争が絶え間なく起こり、その収拾と調停で国連事務総長は世界を飛び回っていました。
 その矢先、1961年に、国連事務総長は、アフリカのコンゴで飛行機事故に遭い亡くなられたのです。その死は、世界の人々から惜しまれ多くの悲しみを誘いました。
 ハマーショルド氏の死後、多くの遺産が整理されましたが、その中から氏が長年書き綴った日記帳が発見され、そこにハマーショルド氏の人柄や人間としての生き方、その裏付けとなる信仰観や祈りの言葉が書かれていたのです。
 これらの日記を通して知ったことは、氏は何よりも「祈りの人」であったということです。世界中を飛び回り各地で紛争の調停に当たるという思い責任と義務を果たしていた事務総長が、「祈りの人」であったということは、改めて人々に深い感銘を与えました。普通の人にはなかなかに真似のできないことです。今日は、忙しいから、疲れていると、つい祈りを怠りがちですが・・
 氏の愛読書は、聖書以外にトマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」がありました。この本をいつもカバンの中に入れ、愛読していたようです。そしてその日記には、いつも人々がどのようにして世界の平和を祈っていたかが明かされています。この日記は、後に、日本でも出版されました。「道しるべ」という本です。
 「この人生において到達しうる、最善の、またもっともすばらしいことがらは、おまえは黙っていて、御業を行い、かつみことばを語ってくださるように、神にお任せすることである。すでに御身はわたしをしっかりとお捉えになったのです」。
 「理解するー心の静けさをつうじて、
  行動するー心の静けさから出発して
  勝ちとるー心の静けさのうちに」
 世界でもっとも思い責任と多忙を極めた人が、「祈り」を(デボーショナルな時間)をきちんと確保されていたことは教えられます。
 主イエスが「気を落とさずに絶えず祈りなさい」と教えられたことにつながるおはなしです。

スポンサーサイト
2007/10/21(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。