津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「ゆるすという奇跡」(ルカ17:1~10)
ルカ17:1-10、2007・10・07、聖霊降臨後第19主日(典礼色―緑―聖餐礼拝)
ハバクク書2:1-4、テモテへの手紙二1:3-14
ルカ17:1~10
 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」


説教「ゆるすという奇跡」(ルカ17:1~10)
  
私たちは、ルカ9:51以降、エルサレムに十字架に付くことを覚悟してお進みになるその旅の過程で語られた主の譬えやお言葉をこのところ、主日ごとに聞かされてきています。本日のルカ17:1-10もそのお言葉の1節であります。その前後の脈絡はよく分かりません。ただ本日の言葉も主イエスが、ご自分の十字架をかけて語られた重いお言葉であることは確かであります。今日の福音の個所についてしばらくご一緒に考えてみたいと思います。  
本日の個所は、4つの主の語られた言葉からなっています。直接的には、それらの言葉は相互に関連はなく、主がいろいろな折に、弟子たち、使徒たちに語られた言葉を、ルカがここにまとめたか、あるいは、このような言葉集が既にあったのをルカが受け継ぎ、手を加えて現在の形にしたもののようであります。
 まず、最初の言葉は、17:1-3Aの部分であります。主イエスは弟子たちに向かって語られたとあります。躓きが来ないようにすることは不可能である。しかし、その人を通してそれが来るその人は災いである、と主はまず言われます。この躓きと訳されている言葉のもとの言葉、原語は、英語のスキャンダルになる言葉であります。英語でスキャンダルというと醜聞とか悪いうわさというような意味でありますが、ここでは、主イエスを、また、父なる神を信じていた人を棄教させるように誘惑すること、あるいはそのように罠にかけることを意味しています。そして主は、このような小さな者の一人を背教の罪に陥らせるよりも、そのような者は、首下、喉に、ろばでこなすような大きな石臼をかけて、海に投げ込まれた方が好都合であると、厳しい言葉を私たち信者に対して、そういうことにならないように注意するように、まず促されるのであります。
 次に、17:3Bから4は、罪の赦しの問題であります。一人の人が悔い改め、生活を改革することを、神さまが、だれよりも喜ばれるのでありますが、ここでは、兄弟同士の関係、信者同士の関係を主は言われるのであります。もし、あなたの兄弟が罪を犯すなら、彼に真剣に警告しなさいと主は教えられます。兄弟の罪を見てそれを放任し、黙認するというのではないのであります。レビ記19:17にも「同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」とあります。どうしても、相手方の非を見ると厳しく叱責する傾向が私たちにはありますが、ここでは主はやさしく丁寧に相手の罪を悟らせるということをしなさいと言われるのであります。もし、相手が聞き入れたら、私たちは兄弟を得ることになるのであります。主はさらに、あなたの兄弟が、信仰仲間が一日に7回あなたに対して罪を犯しても7回あなたの下に帰ってきて「私はやり替えます」と言うなら、彼を赦してやりなさいと言います。
 次は、17:5-6であります。使徒たちが主に向かって言うのです。「信仰を私たちに増させてください」と。これは、前文との直接のつながりは考えにくいんのですが、兄弟が私たちに犯した罪を完全に赦すことは、私たちには不可能に近い。それで、それができるような信仰を与えてくださいと主に願ったとは考えられないでしょうか。「赦すという奇跡」を可能にするために、信仰を増させてくださいと主イエスに迫ったとも考えられます。主はそれに対して、もしも、からし種一粒ほどの信仰があなた方にあるなら、この桑の木に、―これはより大きないちじく桑、あのザアカイが上ったいちじく桑であったかもしれませんがー、それに「お前は根を引き抜かれて、海に植えられよと言えばそのとおりになるであろうと、主は答えられたのであります。桑の木も、より高い力には服するであろう、そして信仰とは量ではなくて質の問題であると主は言われるのであります。
 そして、4番目に、17:7-10の譬えというか、類似のものをあげて、私たちキリスト者の主のしもべとしての義務を示されるのであります。
 あなた方のうちに、召し使い、あるいは奴隷を一人持っている人がいたとして、彼が畑仕事をし、あるいは、羊の世話をして、家へと戻ってきたとき、「お前はすぐにやって来て食事へと横になりなさい」という人がいるだろか。そうではなくて、「お前は私の食べる物を用意し、帯を締めて、私が飲み食いする間、給仕をしなさい、それらのあと、お前は飲み食いするがいい」と言うであろう。そして、彼が命じられたことをしたからといって主人は彼に感謝をするだろうか。それゆえ、あなたがたも、あなた方に命じられたことをすべてやったとき、私たちは取るに足りない、あるいは無益な、不束な僕にすぎません。当然そうなすべきことを、私たちはやったのに過ぎませんと言いなさい、と主は教えられたのであります。
 私たちは、どんなにキリストの僕としての務めを果たしたとしても、十分すぎることはありません。兄弟を躓かせないこと、兄弟の罪を指摘し、悔い改め、生活の改革に導くこと、また、悔い改めた兄弟を赦すこと、またそれをも可能にする信仰を持つことも、私たちの当然の義務であり、それによって決して自慢したり、思い上がることのできるものではありません。私たちは、信者同士、兄弟としての義務を果たしながら、主のみ前に、小さなしもべとして仕えていく道を、むしろ私たちの光栄の道として与えられているのであります。
祈ります。
父なる神さま。
 私たちは、兄弟の特に自分への罪あるふるまいを赦すことができるでしょうか。あなたのみ子の十字架による以外にそれは不可能です。しもべとしての道を歩まれた主のお言葉によるほかに赦すという奇跡は起こりません。日々、み子のお言葉によって、キリストのしもべとして仕える平安の道を歩ませてください。キリストのみ名によって、アーメン。

私たちの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなた方に必要なものをすべて満たしてくださいます。




スポンサーサイト
2007/10/07(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。