津田沼教会 牧師のメッセージ
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「真実の声を聞き分ける」(ヨハネ10:1~16)
ヨハネ福音書10:1-16、2005・04・17、復活後第3主日(白)
使徒言行録6:1-10、ペトロの手紙一2:19-25

ヨハネによる福音書10:1~16
 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。私より前に来たものは皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。-彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

説教「真実の声を聞き分ける」(ヨハネ10:1-16)
 復活祭を今年は3月27日に祝ってから、本日で4回目の日曜日を迎えました。本日は、その福音として、ヨハネ福音書10章1節から16節が与えられています。本日からは復活の出来事そのものから、少し離れて、主イエスの譬えの言葉や文章が与えられています。なぜ、本日のこの箇所が復活節に与えられているのかその意味についてしばらくご一緒に考えてみましょう。
 「よくよくあなたがたに言っておく」と言う言葉で、本日の「譬え」、それは格言、あるいは、謎の言葉とも訳される言葉ですが、それらは始まっています。羊飼いは、戸口を通って入ってくる。それ以外の場所からよじ登って入ってくる者は泥棒であり、強盗である、と主は語りはじめられます。
 そして、羊たちは、その声を聞き分け、羊飼いもその羊を名前によって、呼ぶと羊は彼に従ってついてくるというのであります。ここで、たとえられている羊というのは、私たち、主イエスを信じる者たちであります。羊であるわたしたちは、羊飼いの声、すなわち主イエスの声をを聞き分け、羊飼いでない者にはついていかない、と主は言われるのであります。今日の世界には、いろいろな、主イエスとは違っているが、私たちを呼び入れ、それについてこさせようとする声があふれています。しかし、その中にあって、私たちは、真実なお方である主イエスにのみついていかねばなりません。主イエスと間違ってついていくことがないように、私たちは、常に聖書に聞き、真実の主イエスと、みせかけだけの主をはっきりと区別できるようにしておくことが求められます。
 主は「わたしは羊たちの門であり、わたしより先に来たものは、強盗であり、盗人である」と言われました。それは、この譬えを聞いていたファリサイ派の人々を特に指していたでありましょう。主は、「わたしこそ、門であり、羊たちは、そこを通って、救いにあずかり、そこを出入りして、外の牧草すなわち、永遠の命にありつける」と言われます。イエスという門を出入りして、救いに与かり、主イエスによってこそ彼らは命をもち、しかも豊かにそれを持つと言われます。
 私たちの周りには、特に、日本においては、主イエスではなく、それに似た、救いをもたらしてくれそうな生き方やあるいは情報などもめまぐるしく渦巻いています。しかし、イエスという門を通って入って来ない者は、強盗であり、盗人であると、言われます。彼らがやってくるのは、羊を追い散らし、滅ぼすためでしかありません。また、雇い人も狼がきて、危険が迫ると羊たちを後に残して逃げ去ります。彼らは、羊たち、イエスを信じている私たちの安全や平安には関心がないのです。しかし、羊飼いは羊を知っており、羊も彼を知っている。それはちょうど、「父がわたしを知っておられ、わたしも、父を知っている」のと同じだと言われます。そして、主は、今から約2000年前に「今の囲いに入っていない羊たちをも私は集めることになっている」と言われました。それは、今の私たちのことでありました。すなわち、全世界に散らばっている、主イエスを羊飼いとして認める、私たち異邦人だったものの群れ、世界中の教会に属する者のことでありました。 私たちは、主イエスの声を真実だと聞き分けることができます。主はそのように約束されているのであります。先日逝去されたヨハネ・パウロ二世は、主イエス・キリストの声を伝える勇敢な証し人でありました。このローマ法王の召される時の最期の言葉は「アーメン」であったと報じられていました。私たちもそれぞれ、この日本社会の中で、主が預言されておられるように、まだその囲いに入っていない羊の群れに対し、私たちの周囲の人々に対して、真実の声、主イエスについて紹介する責任を負っています。主は、十字架と復活によって、ご自分の命をわたしたちのために、差し出し、置いてくださいました。それは、私たち散らばっていた羊を一つの群れとして集め、一人の羊飼いであるご自分のもとに私たちを憩わせるためであったのです。そのことを、想起しながら、この一週間も、少しでもみ心にかなった生活と証しをしたいものであります。人知では到底測り知ることのできない平安が、キリスト・イエスにあってあなたがたを守るように。アーメン。
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2005/04/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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