津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「この世界で富をどう用いるか」(ルカ16:19~31)
ルカ16:19-31、聖霊降臨後第18主日(典礼色―緑―)
アモス書6:1-7、テモテへの手紙一6:2C-19

ルカによる福音書16:19~31
 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水で浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から行き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」



 説教「この世界で富をどう用いるか」(ルカ16:19~31)
 先週の「不正な管理人」の譬えルカ16:1-13、それには主イエスの言葉集のようなものも含まれていましたが、それに続いて、本日与えられている福音はルカ16:19-31であります。この譬えも、先週の福音個所に続いて、この世の富、財貨、金を、私たちはどのように用いるべきかを説いている譬えであります。
 もう一度、本日の譬えの概要を、思い起こしてみましょう。本日の譬えも、先週の譬えと同じように「ある金持ち、裕福な人がいた」と始まっていますが、これは、すぐ前の方の文に出てきますように、金に執着するファリサイ派の者たちが、「不正な管理人の譬え」を聞いて、あざ笑ったのに対して語られたものと見ることができます。
 さて、この金持ちは、紫の衣や下着に着る白い亜麻布の衣を着飾って、毎日贅沢に遊び暮らしていたのであります。一方、ラザロという名の、それは、エリアザルという名の略称でありましたが、「神は助ける」という意味の名の物乞いがいて、彼は金持ちの大きな門構え、あるい柱廊のようなところで、体中腫れ物に覆われながら、横たわっていたのであります。
 ところで、主イエスのなさったと多くの譬えの中で、その登場人物に名前が付いているのは、このラザロだけであります。金持ちの方はどんな名だったか記されていません。ラザロは、この名の記されてはいない金持ちの食卓から落ちる物ででも、腹を満たしたいと渇望していましたが、思い通りにはいかず、それどころか、うろついていた犬どももやって来ては、彼のできものの傷口をなめていたのを払いのける力も残っていなかったのであります。
 金持ちの生活とは対照的な、そういう悲惨な有様でありました。そして、起こったことには、その物乞いラザロは死んで、天使たちによって、あのイスラエルの信仰の父アブラハムの胸元へと運び移されたのであります。新共同訳聖書では、「宴席にいるアブラハムのそばに」連れて行かれたと訳されています。
 そして、いつしか、その金持ちも死んで、おそらく、きらびやかに丁重に埋葬されたのであります。
 ところが、金持ちの方は、陰府で気がつくと苦しみの中にあり、炎の中で目覚めるのであります。彼は眼をもたげると、はるかかなたに、アブラハムと宴席にあってそばにいるラザロを見たのでありました。
 彼は思わず、苦しさの余り、大声で、父アブラハムよ、私を憐れんでください。私はこの炎の中で苦しみもがいています。ですから、ラザロを送って、その指の先を水でぬらし、私の口を冷やさせてくださいと言うのであります。
 しかし、アブラハムは答えます。子よ、あなたな命の時に、あなたの良いものどもを受けたし、ラザロは悪いものどもを受けた。そして今はそれが逆転しているのだ。それらのことすべてに加えて、私たちとあなたたちの間には大きな淵、隔たり、溝があって、あなたたちのうちの望む者たちがそちらから横切ってくることもできないし、私たちのこちら側からも、人々は渡ってはいけないのだと言うのです。
 ところで、この対話中、ラザロは一言も発言していません。彼はアブラハムのもとで、一切をゆだねて、憩っているのでありましょう。
 金持ちの方は、自分が助からないと見るや、今度は、自分の家にいた物乞いを使って次善策をこうじようとします。それならば、私には父の家に5人の兄弟がいるので、そこにラザロを送って、わたしが味わっているこの苦しみに合うことがないように警告させてやってくださいと言います。これは「力強く証しする」というように他の新約聖書の個所では訳されもしている強い言葉です。
 しかし、アブラハムはその願いにも応じずに、彼らはモーセと預言者たちを持っている、すなわち、旧約聖書が与えられているではないかと応じるのであります。しかし、金持ちは、いいえ、もしも、死人の中からだれかが彼らのもとに進んでいったなら、彼らは悔い改めるでしょうと、繰り返し願います。
 しかし、アブラハムは、もし彼らがモーセにも預言者たちにも聞こうとしないのなら、もし、だれかが起き上がったとして、生き返ったとしても、彼らは聞き入れはしない、納得させられはしないと金持ちの願いに応じることはなかったのであります。
 主イエスは、富自体が、金持ちであること自体が罪であり、悪であるとは言われません。その用い方が問われてくるのであります。私たちにとっては、金が有り余って、本日の金持ちのような生活ができる人はほとんど例外でありましょう。それどころか、東京のような都会では、特に若い人たちは職を手にし、あるいは家のローンを返していったり、やりくりするのもどんなに大変かと思います。
 しかし、私たちにそれなりに与えられている富をいかに用いるか、その用い方によって、陰府、すなわち、当時の人々が死後行く世界と考えられていた中で、その地獄に行くことになるのか、あるいは、アブラハムの胸元で宴席に着くパラダイスに行くことになるのかの分かれ目になると主は、主としてファリサイ派たちに警告なさったのであります。
 確かに、ここに言われている通り、ファリサイ派たちは、主イエスが死者の中から復活しても主を信じることはしませんでした。主イエスは、しかし、使徒信条にあるように、ご自分も死んで陰府にくだられたのであります。そしてそこでも、説教をなさったと考えられます。主イエスを信じて、主イエスと共に命を生きるように、今では、すべての人が招かれているのであります。私たちはその招きに応じて、この世界で与えられている財貨を神の国に与るために生かし、隣人への奉仕や愛のためにも持ちいる者とさせていただきたいものであります。アーメン。
 人知では到底測り知ることのできない平安が、キリスト・イエスにあってあなた方を守るように。


スポンサーサイト
2007/09/30(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。