津田沼教会 牧師のメッセージ
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「赤の他人が隣人になる」(ルカ10:25~37)江藤直純牧師(ルーテル神学校校長)
ルカ10:25-37、2006・07・09、特別礼拝

ルカ10:25~37
 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコヘ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨一枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰るがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

説教「赤の他人が隣人になる」(ルカ福音書10:25~37)江藤直純牧師(日本ルーテル神学校校長・神学校講壇奉仕)

 知らない人を見たら人さらいと思え。こういうことを子供に教えなければならないというふうに思うとやりきれない思いがします。けれども、かわいい小さな子供には、悲しい事故にあったりするのを見ると、自分の子供や孫にもしかしたらそう言って常日頃から教えておかなければいけないんじゃないかという気持ちにさせられます。知らない人、赤の他人、そういう人を見たら、人さらいと思え。何ともやりきれない気がします。
 最近は知らない人だけではなくって、知ってる人でも事件を起こします。近所のおばさんが、あるいはよく知っているお兄さんが、子供をあやめることがある。近所の人だけじゃなくって、子供が親や兄弟を、逆に親がいたいけない子供を、そんな記事が次々に報道される時代です。知ってれば安全ということでもなくなってきました。けれども、やはり、知ってる人は基本的に安全、知らない人は知らない人だからと、思いがちです。で、知らない人には何があってもそれは、知らない人のことだから仕方がないと思いがちです。
 山手線の新大久保駅を通りますと、改札口から階段を上ってプラットホームにあがるその途中の右と左に分かれているところに、このくらいのプレートがはめ込んであります。多分、二年前だと思います、ホームから落っこちた人がいて、電車が近づいて来るのを見た韓国人の青年が、飛び込んでその人を助けて、自分は命を落としてしまった。そういう人の行為に、そしてそういう生き方を覚えるために、プレートがかかっています。去年の2月28日は、私は、雪の北海道にいました。旭川から二両編制だか三両編制だかの小さな電車に乗って、峠を上って行きました。そこは塩狩峠と呼ばれている手塩と石狩をつないだ峠のあるところです。明治42年、1909年、今から97年前、その同じ2月28日に、当時の国鉄の職員であった長野正雄さんというクリスチャンの国鉄マンが、峠の上で汽車に事故が起こってブレーキがきかなくなって、逆におりて行きはじめて、そのままずっとおりていったらカーブになっているから、ひっくり返れば、沢山の人に被害が起こるということを、予想した長野さんは、とっさにできるだけブレーキを手動式のを回したけれども、どうにもならなかったので、彼が自分でその汽車の前に身を投げ出して、自分の体でもって、汽車のブレーキにして、沢山の人の命を救った。その記念碑を訪ねるためでありました。その長野正雄さんのことをモデルにして、三浦綾子というクリスチャンの作家が「塩狩峠」という感動的な小説を書きました。
 そういうドラマチックなことばかりでないにしても、新大久保の事件にしても、塩狩峠の出来事にしても、赤の他人で自分の身の安全だけは守ることがしようと思えばできたわけですけれども、そうでない生き方、この場合は結果的には死に方を選んで沢山の命を救うということがありました。私たちは、やはり、そういう生き方に、惹かれます。惹かれると同時に、さて、自分はそういうことが目の前に起こったときにできるだろうかと思って、自信がなくなります。こういうときに、私たちはそもそもどう考えたらいいんだろうか、どういう生き方を身につけたらいいんだろうかと思うのです。
 自分のことでなくて、他の人の事を大切にする。そのことを、聖書は、キリスト教は隣人愛と言います。聖書ときたら、キリスト教ときたら、愛、というふうにすぐ連想がいくと思います。神は愛なり、あるいは、なんじの敵を愛せよ、といろいろ、聖書の言葉を思い出すと思いますけども、聖書をあけてみますと、愛するということについては、きわめつきはこの二つだ、というふうに書いてある。それが、今日読んだ、聖書の日課にありましたあの二つの教えです。一つは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、つまり全身全霊を傾けてあなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。
 ルーテル教会が、95年ほど前に、九州の熊本で建てた九州学院というミッションスクールがあります。千葉英和も一つのミッションスクール、九州学院も一つのミッションスクールでありますけれども、その九州学院のスクールモットーは、「敬天愛人」という、天を敬い、人を愛する。西郷隆盛も同じような言葉を言ったかと思うのですけれども、しかし、この「敬天愛人」が意味しているのは、今聖書に書かれていたイエスさまの中心的な教え、全身全霊を傾けて神さまを愛するようにということと、自分のように隣人を愛しなさい。そのことをずっと四文字熟語に縮めて「敬天愛人」と言ったわけです。
 聖書の聖書たる所以、それは、このキリストの教え、崇高な、立派な教えが教えとしてただ頭の中に知識としてある、口先だけのスローガンにとどまるということではなく、それを実行しなさいと言って、迫ってくるところにあります。そして、そのことについて、とても印象深く教えているのがこの今日の日課、「良いサマリア人」という譬えです。
 今でも、例えば、グッド・サマリタン・ホスピタルというような病院の名前が書いてある。まあ、直訳すれば、「良いサマリアの病院」、つまり、良いサマリア人というのは隣人愛の代名詞のように、使われていますが、この話を少し丁寧に見てみたいと思います。
 この話は、要は、イエス・キリストと律法の専門家、平たく言えば聖書の専門家の問答、やりとりから始まっています。ある律法の専門家が立ち上がってイエスを試そうとして言った。まあ、質問をするわけです。試そうとして言ったと書かれていますから、もう真剣に人生の道を求めて、是非教えを乞うているということではなくて、もう答えはちゃんと自分では出来上がったものを持っていて、さて、自分は正解は知っているんだけど、このイエスはちゃんと答えを正しく知っているだろうか、試してやろうという意地の悪い、しかし丁寧そうな顔をして、どうでしょうか、どうしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょう。永遠の命、本当の命、真実の命、どうやったら人間はそれを手にすることができるでしょうかと、膝をかがめて質問するわけです。
 けれども、さっきも言いましたように、彼は、自分の中では、答えは持っていて、さあ、どうだと言ってイエスを追い詰めるつもりで、質問をしました。ところが、主導権はあっさり逆転します。律法の専門家がイエスに迫っていたはずだったのが、くるっと立場が逆転して、律法の専門家が答えを迫られる、そういうふうな構図に逆転してしまいます。さあ、律法には何と書いてあるか、つまり聖書には何と書いてあるか、あなたはそれをどう読んでいるか、どう解釈しているか。そんなふうに、イエスさまのほうが問いを投げ返します。彼が答えないといけなくなる。それで、彼はしぶしぶと言いますか、あるいはじゃあ教えてやろう、俺は知っているぞというわけで、申命記の中に書かれている言葉を一つ、レビ記に書かれていることを一つ、つまり、あの全身全霊をあげて神さまを愛することと、そして、自分自身を愛するように隣り人、隣人を愛すること、その二つですというふうに答えます。そして、どうだ、これが正しい答えだぞというわけ。
 そしたら、イエスさまは、それで、そうですね、その通りですねと言うだけで終わらずに、「正しい答えだ。それを実行しなさい」ともう一遍彼の方に投げ返します。あくまでも、あなたが問題ですよと言って、問い返し、問いを投げ返されるわけです。神に問うているうちに、神さまから私が問われている。そういう場面になってくる。イエスさまを困らせようと思ってやって来たわけですから、この人はこのままそうそうと引っ込んでしまうわけにはいかないので、もう一遍何とか逆転しようと逆襲しようと思って、こう言います。ただそれを実行しなさいと言われたんですから、わかりました、そうします、有難うございましたといって引っ込まずにですね、もちろん、そうしますけれども、そうしますよ、そうしますけれども、念のためにお尋ねしますが、それは私の隣人に対してですよね、と確認して、自分が間違っていないということを何とか言い張ろうとします。
 自分の隣人を、私の隣人を愛すればいいんですよね、隣人を愛しなさいと言われたんだから、ええ、私の隣人を愛しますよ、それでいいんですよね、と逆襲しようとするわけです。そのとき、彼は自分の頭の中には、「誰が自分の隣人か」。そのことをよく知った上で、ということは、そのことに限定した上で、その人たちを愛すればいいんですよね、というふうに逆襲を試みているわけです。
 イエス・キリストはそれに対して、そうだとか、違うとかおっしゃるんじゃなくて、一つの譬えをもって、話を、答えを与えられようとします。たとえと言いますから、私たちはつい話し上手な人が、作り話を考えたと思うかもしれません。そうかもしれませんし、私は、もしかしたら、これは実話の人だったかなあとも、もしかしたらそうかもしれない、そうでないかもしれない、わかりませんけれども、ともかく、その話を手がかりにして、この聖書の専門家に、イエスさまはあなたはもう一遍考え直すようにと言って、投げかけられます。
この良いサマリヤ人の譬えというのは、いろんなときに、聖書の代表的な話として、今までも聞かれたことがあるかもしれませんが、エルサレムからエリコに下って行く途中、2千年前にも、今も、このエルサレムもエリコもあります。3千年前に既にエルサレムも、エリコもあった、どっちも古い町です。ただし、エルサレムの場合には、海抜700メートルくらいの高い所、エリコはずうっと低いところですから、下っていくというのは本当に坂道をどんどん下って行かねばならないわけでしょう。そこを旅人が通っていた時に、追いはぎが出てくる。日本語では追いはぎとだけ書いてありますけども、横文字の聖書を見てみると、複数になっているから、二人か、三人か、四人か分かりませんけども、何人かで襲ったわけです。そして、半死半生の目にあわせて、やっつけて持ち物を身ぐるみはがして持っていってしまった。そこで、彼は道路でうつぶせになって、あるいは仰向けになっていたでしょうか、わかりませんけれども、なりながら、このまま日が暮れていってしまったら、朝には冷たくなっているんだろうか、このまま死んでしまうんだろうかと心配だったろうと思います。
そこに、大変幸いなことに、足音が聞こえてきて、まず、最初に祭司、神殿で神さまに奉仕する、日本で言えば神主さんといったらいいでしょうか、そういう役目の人が通りかかる。着ているものですぐわかる。それから、その次にレビ人、この人は祭司のもとでやっぱり神殿で奉仕する人たちです。その中の一人が通りがかる。祭司が来たときも、レビ人が来たときも、彼らは道の向こう側を通り過ぎて行ったと書いてあります。
どういう気持ちで通り過ぎて行ったでしょうかと、創造されます。聖書はもう極めて簡潔に、要点だけを書いてありますから、そのとき、この人がどういう気持ちだっただろうかということは書いてないので、想像するしかありません。その場面を思い浮かべて、そこにうなっている人がいて、そして、自分がそこに通りがかった時、その時にこの人は結果的に通り過ぎて行きましたから、かわいそうにあいつ、追いはぎにやられたんだろうけれども、運が悪かったんだなあ、俺は助けてる暇はないし、大体俺とお前とは赤の他人だから、関係ないよ、あばよといって通り過ぎたと思われますか。それは、考えにくいですよね。私たちは聖書を何度も読み、この話を聞いてると、祭司とレビ人は冷たく通り過ぎて行ったから、何とまあ冷たい人間だと、冷酷非情な人間だと思いがちですけれども、結果としてはそう言われても仕方がないんですけども、おそらくはかわいそうにと思わなかったはずはないだろうと思います。だれでも温かい人間性が少しはあると思いますから。そんなのが、温かい血が、一滴も流れてない人は一人もいないと思います。
でも、もう一つの人間性、つまり、もしかしてまたここに追いはぎが出て来たら、自分も巻き添え食ったら、たいへんだ、自分も同じような目にあうかもしれないと思うと、恐くなる。恐くなると、介抱しているうちに、自分がやられてしまったら、と思ったら、この際、知らんぷりしようという気持ちが起こったかも知れません。あるいは、介抱しているうちに、とうとうもう手遅れで死んでしまったら、自分はこの人に、死体に触れたことになる。そうすると、当時の教えでは、自分自身も死体に触れることで汚れたことになって、神殿での聖なる仕事に差し支える。なら、どうせ助からないだろうから、いいだろうと、いう思いになったかもしれません。
私が今まで、この聖書の個所で聞いた話の中で一番皮肉たっぷりの解釈はこういうものでした。祭司の胸のポケットの彼の手帳には、今夜7時からエリコの町で隣人愛について講演することになっているから、それはまあ余りに皮肉な話だと思いますけれども、ともかく心の中には、ごめんねという気持ちがあったかもしれない、助けてやらなくちゃあという気持ちが起こったかもしれない、分からないんですけども起こったんじゃないかと思いたいんですが、最後はしゃっぷりして行くことを選んでしまいます。そのとき、どういう理由で自分を納得させたか。手帳に何が書いてあろうとですね、最後にそれを納得させるのは、この人は自分にとって赤の他人だ、ということで納得させるんじゃないでしょうか。もしこれが自分の子供だったら、自分の愛する人だったら、たとえ手帳に何が書いてあろうと、もしかしたらまた強盗が来るかもしれないけれども、助けないではおられないんですが、助けない自分を正当化する最後の理由は、この人、赤の他人だから、助けなくったって仕方がないと思ったんではないでしょうか。
共通点と言えば、同じユダヤ人だという民族のことをあげることはできるかもしれないけど、家族が同じなわけじゃない、同じ村の出身じゃない、まあとにかく知らない人なんだ、赤の他人なんだ。そのことで、自分を納得させてしまって、そこを通り過ぎたんだろうと想像します。
それに対して三番目にやって来たのは、サマリヤ人、まあ、この見出しは「良いサマリヤ人」となってますけど、最初から良いサマリヤ人だったわけじゃない、普通のサマリヤ人がここに通りかかります。ビジネスマンだったことだと思いますね。荷物を持っていて次の日の仕事がある。その彼が通りがかったときには、ここは彼の心の思いが一つだけ書いてあります。「そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って、云々」と書いてあります。「憐れに思い」と書いてある言葉を別の日本語の聖書で見てみますと、「断腸の思いにかられて」と書いてある、腸がねじれ切れるばかりの強い痛みを感じて、はらわたがえぐられるような、ひきちぎられるような痛みを自分の中に感じた。それは、彼の痛みを自分が共感したということであります。
そうしたら、彼はそのときにつつつつと走ってかけよっていって助けたと、私たち、大体、まあ、教会学校でもそんなふうに、紙芝居見ながら教えられたように思うんですけれども、さっきの祭司やレビ人がもしかしたら憐れみの心もちょっと抱いたけれども、踏み切れなかったのとちょうど裏っかえしに、この人の場合も、助けたい、けど、助けると恐い、もしかすると巻き添えをくうかもしれない、まだそこらへんに山賊がいるかもしれない。いろんなことを思わなかったわけじゃないと思うんです。彼も人の子ならば、厄介なことはいやだな、とか、自分が怪我しないかなとか、殺される目に遭わないかとかそういう不安がよぎらなかったとは、思わないんですね。完全無欠の高潔な人物がここにいたとは思わない。しかし、それでも彼は、この人のところに、近づきます。そして、応急手当をします。私は、聖書は全部正しいことが書いてあると思うんだけれども、順番、これ逆じゃないかなあと、不遜ながら思うのはですね、ぶどう酒、アルコールで消毒して、その次に消毒した傷口に油を塗るというのが正しい順番じゃないかなあと思いますけれども、まあ、そういう細かいことは、ともかくとして、近寄って傷に油とぶどう酒を注いで、そして、包帯をして、自分のろばに乗せ、ろばに乗せるということは、ろばの背中に乗せていた自分の荷物を自分が背負うということですから、ほんと大変だったろうと思いますが、そして、坂道をずっと下って、宿屋まで行く。そして、宿屋に行って徹夜で介抱する、翌朝、熱が引き、痛みも少し弱まったんでしょうから、もう命を取り留めたと確認した彼は急ぎの仕事があったからでしょう、その人の分のお金まで払って、翌朝去って行きます。
彼は、サマリア人と書いてある、そして、怪我した人はユダヤ人。これはですね、まあ言うならば、民族的に言うと隣同士の不倶戴天の敵と大げさに言えば、そういうことなんですね。もともと、先祖を辿っていけば一つの所に行くのに、何百年も前に二つの民族に分かれてしまった、宗教も異なるようになってしまった。それは、むしろもとが一緒だっただけに、近親憎悪、近かっただけに憎しみの気持ちを引きずって、その民族同士いつも避けていた。イエスさまがわざわざヨルダン川の東側を旅された、当時の人々そうしていた、でも、イエスさまはサマリアの地を通ったと書いてある記事もありますけれども、わざわざそこは通らないで、みんな、遠回りしてでも接触をしたがらないような、嫌い、憎しみ合っている、あるいは蔑んでいる、関わりを持つことをできるだけ避けてきた。それを、最近のことじゃなくて、百年、二百年、三百年、何百年もやってきた。まあ、これこそまったく赤の他人のなかの他人、これぐらい関係を持ちたくないと思っているお互い同士、なのに、なのに、サマリヤ人は助けました。
さっきの祭司とレビ人は、赤の他人だということで、自分を納得させました。サマリヤ人の場合は、もう納得させるも何も、もう正真正銘の赤の他人、赤の他人どころか嫌い合っている、憎しみ合っている者同士。なのに、彼はこの行為ができた。この違いは何がそれを生み出したでしょうか。赤の他人は赤の他人、そして親しい隣人は、親しい隣人。こんなふうに区別をして、私たちは日常生活を送っています。
多くの人がそうしていますし、この聖書にでてくる律法の専門家も、祭司もレビ人もそうしました。多分私もしばしばそうしていることだと思います。赤の他人であるあの人ということはすなわち、私の親しい隣人ではない。だから、いざというときは関わらなくてもよい。それが自分が関わらないことへの正当化の根拠であります。
祭司とレビ人も、そのことを赤の他人だからというふうに言いました。自分を守るためによく使う手です。ところが、サマリヤ人の発想は、まったく逆でした。確かにあの人、あの怪我をしている人は、私にとっての赤の他人、ということは、言い換えれば、私は、あの人にとって赤の他人、民族的、歴史的にも現在も、どこから見ても接点がない、そう助けなければいけない義理はない。
しかし、彼は、先ほども言いましたように、はらわたがちぎれるほどに、あの人の痛みを感じ取りました。伝わってきました。その時に、あのサマリヤ人には、あの人は私にとっては赤の他人ということは変わらなかったんですけれども、あの人から見たら赤の他人である私が、あの人にとっての隣人になろう。いや、ならねばならない、という思いがよぎってきたのです。あの人が私の隣人にふさわしい、私の愛や友情や助けを受けるのにふさわしい者に変わるのではない。私が隣人に変わるのです。
イエス・キリストは、この律法の専門家に、二つの質問をされています。まあ一杯質問されてるんですけど、イエスさまが一つ、そして、律法の専門家のほうが一つ、ようく似た質問をしています。ようく似ているんです。しかし、決定的に違う、そういう質問をしているのを見つけ出したいと思います。聖書の中で言いますと、一つは29節、のところなんですけども、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とはだれですか」と言った。だれが私の隣人ですか、と聞くわけですね。で、その時に、だれが隣人なのかはさっきも言いましたように、知っていた上で、だれが私の隣人ですか、その人だけを助ければいいんでしょと言いました。でも、イエスさまが聞かれた問いは、違いました。36節、「さて、あなたはこの3人の中でだれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」だれがあの、追いはぎに襲われた人、あの人の隣人になったか。だれが、あの人の隣人になったか。もう一つの問いは、「だれが、私の隣人ですか」。
 よく似た質問です。同じようではないかと思いがちですけども、決定的に違うところが二つあります。一つは、律法の専門家が聞いたのは、「だれが、私の隣人ですか」と聞きました。イエスさまは、「だれがあの人の隣人になるか」と聞かれた。私の隣人、あの人の隣人、どっちが中心かということですね。イエスさまのこの私の隣人じゃなくて、あの人の隣人、というふうに視点を180度向きを変えられた。今、はやりの言葉に自己中という言葉がありますけれども、どんな虫かと思うと、そうじゃなくて、自己中というのは自己中心、世界の中心が私だと思う、あの自己中。自己中の発想でなくて、あの人を中心に考える。それが一つ、そしてもう一つの違いは「だれが私の隣人ですか。」それに対して、イエスさまが聞かれたのは、「だれがあの人の隣人になったか」。「であるか」、「になるか」。「であるか」というのは、もう既に決まっているんですね、そうなっている、固定している、閉じられている。それに対して「になる」というのは、これからのこと、動的なこと、開かれていること、これから決定されるんですね。イエスさまは出来上がった世界の中でどう生きるかということを教えられませんでした。今から、作られていく世界、しかもその世界の真ん中に、私を置くんじゃなくって世界の中心は自分だというんじゃなくて、今現に困っている立場にあの人を置くということを考える。
それが、一番目、あの人を中心に置く、その次に、私はどうする、その時に「になる」という発想、「になる」という行動が起こってきます。きわめて主体的なことです。あの人を中心、そして「になる」という発想、それはきわめて主体的だと言いました。主体的と言いますと、自主的とか、自分の意思に基づいた、積極的な行動をするというふうに考えられますけれども、もう一つ隠れた意味があると思います。それは、この漢字を見て、与えられたインスピレーションです。主体とは主の体と書きますよね。主イエス・キリストの体。聖書の中で、使徒パウロは、私たちに向かって、あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分ですと言います。私たちは、キリストの体、そして頭であるキリストの思いを実行するのが、手であり足であり、あるいは指であり、この主の体として、主の体的な生き方、そのときに私たちのする行為は、自分で考えた自主的な行為のようでありつつ、実はキリストの思いが実現されるその道具としての器としての生き方になるのですう。
そもそも、キリストの思い、キリストの心というのは、神さまの心。同じ使徒パウロは、聖書の中で、キリストは神の身分でありながら神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。言ってみれば、神さまから遠ざかってしまった、ということは赤の他人に人間の所に神さまの側から、キリストとして来てくださる。隣人になってくださる、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、徹底的に隣人になってくださる。赤の他人が隣人になったモデルが、ここにあります。これが、神の愛、これが真の人間の生き方。この生き方へと、私たちは招かれています。赤の他人としてあの人とは知らない、この人とは知らない、無関係に生きるのではなくって、自らその人の隣人となる、その時に世界が広がり、豊かになります。それが愛の生き方です。数年前になくなった、カルカッタでずっといい奉仕をしてこられたマザー・テレサというシスターは、愛の反対語は何だ、と質問して、それは、普通私たちが考えるように愛の反対は憎しみではなくて、愛の反対は無関心ですと彼女は教えてくれました。憎しみ時はまだ相手の存在を認めていますよね。そしてそいつが嫌いだと思って憎むわけですけれども、無関心と言ったらもうその人は私にとって存在していないことになる。
赤の他人として無関係に生きる生き方、それを生きていくか。あの人を中心に、そして自分がそれになっていくというその隣人となる生き方を選んでいくか。
だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。律法の専門家は言った、「その人を助けた人です。」そこで、イエスは、言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
お祈りしましょう。
恵み深い神さま。
生まれたままの私では、自分のことを大切にしてくれる人だけを隣人として、関係を作っていきます。その中で親しい人とだけ、仲良くしていく生き方です。赤の他人は赤の他人として無関係に生きていこうとします。けれども神さまは、イエスさまを通して、赤の他人の隣人となる愛の生き方を示してくださいました。
神さま、どうぞ、私中心でなくって、困った立場にあるあの人を中心に自分の既にできている関係でなくて、新しく隣人になっていく。そのような主の体にふさわしい生き方をする力を、私の中に与えてください。聖霊によってその心を、キリストの心を、私たちの内に満たしてください。そのような思いをもって今週1週間を過ごしていくことができますようにお導きください。感謝と願いを救い主イエス・キリストのお名前を通してお祈りいたします。アーメン。



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2006/07/09(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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