津田沼教会 牧師のメッセージ
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「あなたは失われていませんか」(ルカ15:1~10)
ルカ15:1-10、2007・09・16、聖霊降臨後第16主日(典礼色―緑―)
出エジプト記32:7-14、テモテへの手紙一1:12-17

ルカによる福音書15:1~10
 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」



説教「あなたは失われていませんか」(ルカ15:1~10)

  本日の福音の記事は、ルカ15:1-10です。本日の記事も、どこで、いつ、ということは定かではありません。しかし、9:51以下に含まれていますから、主イエスのエルサレムへの旅の途上の出来事として位置づけられています。
さて、本日の記事は、「徴税人や罪人たちが彼、すなわち主イエスに聞くために近づいて来ていた」というふうに、始まっています。そして、ルカ15章は、「失われた者の回復」というテーマで、3つの譬えが出てきます。そのうちの第1と第2の譬えが本日の部分であります。本日の説教題を私は「あなたは失われていませんか」というふうに付けておきました。しかしむしろ、この1週間を振り返ってみますとき、「私は失われていました」と告白しなければなりません。神さまから離れて、暗い闇の中へ陥ってしまった1週間でした。 
しかし、主イエスは、このような私に向かっても、悔い改めを促し、新しく心を神に向けて、今日も説教を語るようにと励ましてくださいます。私のためにも十字架に向かわれながら、主イエスは本日の譬えもお語りになられているのであります。
 さて、主イエスが罪人たちを歓迎し、食事を共にしていることに、ファリサイ派や律法学者たちは、つぶやきます。そこで、主は、彼らに向かってこう語りながら以下の譬えを言われたのであります。「あなたがたのうち、羊を100匹持っている人がおり、そのうちの1匹が失われたなら、99匹を草原に残して、その1匹を見出すまで進んでいかないだろうか。そして、それを見出したなら、自分の肩に担い、喜びながら、自分の家へと戻って来て、友達や隣人たちを呼び寄せ、『共に喜んでください、失っていた羊を見出しましたから』と彼らに語るだろう。あなたがたに言うが、天において、そのような喜びが、悔い改めを必要としない99人の正しい者よりも心を神に向ける一人の罪人の上にあるであろう。」 
主は、医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を悔い改めへと招くためであると言われます。
 この羊の譬えでは、羊は、二つめの譬えとは違って自分から迷い出たということでありましょう。迷い出る羊の譬えは、マタイには並行記事がありますが、そこでは、主イエスのどんな小さな弟子をも躓かさないようにという脈絡で書かれていますが、ルカの記事では、ファリサイ派たちが罪人を受け入れ、もてなす主に対して、不平を言ったことに対して、一人の罪人が悔い改めることが、神にとってはどんなに大きな喜びであるかを教えようとしています。古代の教父アンブロシウスは、野原に残していった99匹とは、天使たちのことであり、1匹とは、人間そのもののことを指していると考えました。私たちは、皆神の前に立つとき、失われているものではないでありましょうか。多くの日本人の方々は、主イエスを知らずしても、結構、人間らしく幸福に生きているようにも見えます。しかし、私は、十字架にかかった主イエスなしには、決してまともな生き方ができないことを感じさせられます。それにしても、幾たびも主イエスから離れて、迷える羊となる牧師としては恥ずかしい我が身であることを悲しく思います。しかし、このような私をも諦めず、見出すまで進んで来てくださる主イエス、そして父なる神に感謝いたします。
 さて、主はさらに言われます。「あるいは、10ドラクメ銀貨を持っている女が、1ドラクメを失ったなら、彼女は、ともし火をつけ、家をはいて、それを見出すまで求めるのではないか。そして、彼女が見出したなら、彼女は女友達や女の隣人たちを呼び寄せ、『私と一緒に喜んでください。なくしていた1ドラクメを見出しましたから』と言わないだろうか。このように、私はあなた方に言うが、悔い改めた一人の罪人の上に、神の天使たちの前で喜びが成る」と。これは、第1の譬えが男であったのに対して、女の人があげられており、あるいはそれは、教会を表しているのかもしれません。そして、教会の内側で、私たちの責任で失ってしまった者を回復する喜びが表現されているとも考えることができます。
 いずれの譬えにおいても、一人の悔い改める罪人の上には、神のために働く人たちのみならず、神御自身の大きな喜びがあり、それは、一人でとどめておくことのできるものではなく、パーティに周りの人々を招いて喜ぶというようなあふれ出る喜びであると主イエスは宣言なさいます。私たち罪人が、悔い改めて絶えず父なる神に、また、羊の大牧者である主イエスの下に立ち返ることが、何よりも神の喜びであるという福音を私たちは、本日聞かされているのであります。この福音を伝えるために、私たちは、今一度新たに、立ち上がり、この礼拝堂から遣わされていきましょう。
 祈りましょう。
 天の父なる神さま。
 あなたは、私たちの弱さをよくご存知です。しかし、悔い改めてあなたに立ち帰るとき、あなたは私たちを無条件で喜び迎えてくださいます。どうかこれから始まる秋の伝道の季節を、主にある平安のうちに1週間、1週間歩ませてください。聖書の言葉を、日々、味わいながら、地に足をつけて、自分になしうる範囲のことを精一杯なさせてください。あなたは、私たちを決して諦めない方です。そのあなたの肩に担われながら進むことができますように。キリストによって祈ります。アーメン。

 
 
 



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2007/09/16(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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