津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスと共に」(ルカ14:25~33)伊藤早奈牧師
ルカ14:25-33、2007・09・09、聖霊降臨後第15主日(典礼色―緑―)特別礼拝

 ルカによる福音書14:25~33
 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍してくる敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てなければ、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」



 説教「主イエスと共に」(ルカ14:25~33)伊藤早奈牧師
 
お祈りいたします。天の神さま、今朝もこのように、私たち一人一人が神さま、あなたに新しい朝の目覚めを与えられ、そして、あなたに招いていただき、礼拝を共に守ることができますことを心から感謝いたします。今朝は、あなたの福音の自由な翼により、この津田沼教会のお一人お一人とあなたからのみ言葉を通して、出会うことができますことを重ねて感謝いたします。私たちはそれぞれの心にある方々と共にこの礼拝を守ります。これから語られますあなたからのみ言葉を、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと神さま、あなたがお語りください。この僕のすべてをあなたへお委ねします。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によってみ前にお捧げいたします。アーメン。
 
お早うございます。今、お祈りさせていただいた通り、神さまからいただいた福音による自由な翼が与えられなければ、私はこの津田沼教会のお一人お一人とこのようにして出会うことはなかったと思います。本当に神さまに感謝しています。
 出会いはすべて神さまから与えられます。神さまから与えられる出会いは永遠です。今日、み言葉を通して与えられるこの出会いが神さまによって永遠とされることに感謝したいと思います。
 今朝、与えられました福音書の箇所の中のルカ14:27において、主イエスは、主イエスについて来た群衆、一人一人に言われます。
 14:27「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と。
 十分の十字架とは何のことでしょう。背負うとはどういうことなのか。主イエスの弟子になるのは誰なのでしょうか。
 主イエスが生きられた遠い遠い昔に、選ばれた人たちだけに語られた言葉としてではなく、今、現在を生きる私たち一人一人に与えられるみ言葉として、私自身の証しを交えながら、み言葉からご一緒に聴いていきたいと思います。
 よく、何かの業を身に付けたい人が、親方のところへ「弟子にしてください」と門を叩く。というふうな様子をテレビのドラマやドキュメンタリーで観ることがあります。主イエスの弟子になることは何かの業を身に付けたいからなるわけではありません。
 そのように、私たちが選ぶのではなく、もう既に私たち一人一人が主イエスによって選ばれているのです。それは、「生きる命」としてなのです。
 「命」は一人一人同じように与えられています。しかし、「どう生きるか」は一人一人に委ねられているのです。
 主イエスに従って生きることを選ぶのは、あなた自身なのです。
 主イエスの背負われた十字架は、主イエスが生きておられた時代、最も重い刑とされていました。
 十字架は当時、罪の象徴であり、反逆者への見せしめであり、最も辛く、苦しい刑の一つだったのです。主イエスは、その十字架を誰かに強制されて背負わされたのではなく、背負われたのです。
 悲しみも人々からの裏切りや中傷からも逃げることなく、ご自分の歩まれる道として、十字架を背負いながら一歩一歩踏みしめて歩まれました。
 しかし、罪や憎しみの象徴であった十字架は、主イエスの復活により、希望へと変えられました。
 主イエスに従って生きるとは、与えられた辛い、苦しい十字架をも希望へと変えられることなのではないでしょうか。
 「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」
 私は、13年前、現在の医学では治すことができないという進行性の難病と診断されました。病名は、脊髄小脳変性症と言います。最近のドラマで、「1リットルの涙」というドラマの主人公の少女と同じ病気です。
 診断当初は、杖も持たずに歩き回っていましたし、字も自由に書けました。言葉も練習しなくても、はっきりとしゃべれたし、今の自分とはまったく状態が違います。
 信仰する病気、そのうち何もできなくなる。「何で?」「私、悪いこと、したかしら?」
そんな思いを持ってから、何年かの時を経て、こんな自分でも神さまに生かされていることを証しできるのならと、神学校の門を叩きました。
 しかし、何年もたつと、私自身は進行する病気を受け入れているつもりでしたし、自分の病気という十字架を背負っているつもりでした。
 十字架は、主イエスと共に背負っていないと、いつのまにか背負わされているものへと変わっていくものであるのだと、思い知らされる出来事が起こりました。
 それは、先月の8月の定期入院中に起こりました。今年4月から、教区付の牧師として働かせていただくようになり、嬉しいことにいろんな教会から依頼されるようになりました。
 ある教会の牧師からも依頼があり、何の不安もなくお受けしました。その教会は二階に礼拝堂がありましたが、4年前、車椅子から降りて手すりと一人の肩を借りて、階段を上ることができていたので、大丈夫だと思っていたのです。
 お受けして何日後だったでしょう、病気が進行性であることを思い出し、まず、近くの病院のリハビリの先生に聞きました。先生の返事は、「多分、無理です。断ったほうがいい」という答えでした。
 入院した病院のリハビリの一人の先生も答えは同じでした。
 先生の意見を理由にお断りしようと思っていたときに、他の一人の先生に、「判断するのは、ご自分で試してからのほうがいいのではないですか?」と言われました。お断りする前に自分で試してから自分で判断することにしました。答えは同じでしたが、答えを出す出し方が違いました。私はいつのまにか先生のせいにして、現実から逃げようとしていたのです。病気という十字架を背負わされたかわいそうな一人の人間として生きようとしていたのではないでしょうか。
 自分の責任で納得したうえ、お断りした結果は、将来の教会建築の希望へと広がりました。
 もう一度、14:27をお読みいたします。
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」
 自分の十字架を背負うこと、それは今を生かされている自分と向き合うことです。
 それは楽しいことばかりではありません、悲しいこと、苦しいこともたくさんあります。この前、終わってしまったからもう起こらないというものでもありません。それは今を生きているあなたに与えられているからです。
 でも、その一つ一つは、共に生きておられる主イエスが共に担ってくださいます。共に生きておられる主イエスの姿は見えなくても、確かにおられます。
 あなたが心を主に向けて祈るとき、あなたと共におられる主イエスを感じることができるのです。
 主は言われます。「自分の十字架を背負ってついて来る者と私は共にいます。あなたは、私の弟子なのです。」
 祈り)
スポンサーサイト
2007/09/09(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。