津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神の前での謙遜」(ルカ14:7~14)
ルカ14:7-14、2007・09・02、聖霊降臨後第14主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書9:22-23、ヘブライ人への手紙13:1-8

ルカによる福音書14:7~14
 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」




 説教「神の前での謙遜」(ルカ14:7~14)

 私たちは、聖霊降臨後のこの時期を、主イエスの語られた言葉や主イエスのなさったみ業を通して、主日ごとに、主として今年はルカ福音書の記事を中心として聞かされながら、歩んでいます。本日の福音の記事はルカ14:7~14でありますが、これは、食事の席、あるいは、宴会、婚宴に関わる記事であります14:1~24のうちの一部であります。
 食事における交わりというと、平凡な、たいして重要ではないことのように思いがちでありますが、これらの一連の記事は、エルサレムへと十字架を目指す9:51以下の旅の途上で起こったこととして、位置づけられており、その中での間奏曲のようなものではないのであります。食卓の交わりは、聖書では決してどうでもいいようなことではありませんで、本日もこの後、礼拝の中であります聖餐式も、最後の晩餐の席で主イエスによって、与えられたものであり、また、復活の主がエマオの途上で二人に現れてご自分を啓示なさったのも、エマオの家での食事を通してでありました。さらには、使徒言行録においては、ユダヤ人と異邦人とが食事を共にすることを通して教会が広がっていったのであります。しばらく、本日の短い記事について、ご一緒に考えてみたいと思います。
 本日の出来事も、14:1以下にありますあるファリサイ派の議員に招かれた食事における出来事に続いて記されていますので、そこで、引き続いて起こったことと素直に考えてもあながち間違ってはいないと思います。主は、宴会に呼ばれた人々が、食事の名誉の場所、もてなしの主人の近くの席でありましょうか、中央の方の席でありましょうか、それをいかに選び求めているかに気付いて、彼らに向かって譬えを語っておられたのであります。主はこうお語りになります。「あなたが婚宴に呼ばれたなら、最も名誉な場所に横にならないようにしなさい。もし、あなたよりも尊敬されている人がいたら、あなたと彼を呼んだ人はやって来て、あなたに言うだろう。『この人に場所を与えなさい』と。そしてあなたは、恥と共に、終りの場所に席を占め始めるであろう。あなたが呼ばれたときには、あなたは進んでいって終りの場所に横になりなさい。そうすれば、あなたを呼んだ人が来て、『友よ、もっと上にお移り下さい』と。その時、栄光があなたに、すべての一緒に食事の席に横になっているすべての者の前であるであろう。なぜならば、すべて自分を持ち上げる者は、低くされるであろうし、自分を空しくする者は引き上げられるであろうからである」と。当時のユダヤ教の指導者たち、ファリサイ派や律法の専門家たち、聖職者たちはここで見られるように、この世での高い地位や名誉の席を飽くことなく追求していました。しかし、終りの日のメシアの祝宴へと神によって呼ばれるのは、彼らではなく、当時の社会では拒まれていた低い者たち、そして自分を謙遜・謙虚にしている者たちであろうと、主は食事の席に集まっている人々に向かって、警告なさり、目覚めるよう促されたのであります。
 続いて主は、少しだしぬけな感じはしますが、この宴会にご自分を招いてくれた人、もてなしの主人にも言われます。「あなたが宴会、昼食や夕食の会をするときには、あなたの友人たちや兄弟たちや親類たちや金持ちの隣人たちを呼び出さないようにしなさい。すなわち、彼らがあなたを招き返し、お返しが起こることにならないように。そうではなくて、あなたが宴会、レセプションをするときには、貧しい者たちや手足の不自由な者たちや、体の不自由な者たちや目の不自由な者たちを呼びなさい。そうすれば、あなたは、祝福されるであろう、なぜならば、彼らは支払うべく持ち合わせてはいないからであり、なぜならば、正しい者たちが復活するときに、あなたは支払われるであろう、すなわち、報われるであろうからである。」主はそう言われるのであります。
貧しい人たちは経済的に招き返してお返しすることは不可能でありましたし、残りの者たちも、肉体的にそうすることがまず無理であったでありましょう。主イエスは、この後半の勧めにおいても、復活の時に報われるように客を選ぶよう宴会のもてなしをする人に説いておられます。
 私たちは死ねばそれで終りではないのであります。復活の時に、お返しできない者たちを招いた人は、神によってお返しされると主は約束されるのであります。そして、復活は、正しい人にも、悪い人にも起こるのであります。正しい人は報いへと復活させられ、悪い人は罰へと復活させられるのであります。私たちのふるまいには、必ずそれに応じた神からの支払いが、すなわち報いか、罰かが伴うのであります。そして、私たちは、本日の主イエスの言葉を通して、私たちが神の報いの方に、神の報酬へと与る生き方をするうようにと招かれているのであります。
 私は、8月の20日まで、四泊五日で北軽井沢での山荘で、第19回ディアコニアキャンプに、チャップレンとして参加してきました。島田療育センターなどに入所している重度心身障害者の三人の人たちを十人ほどで見守る、体力は消耗するが非常に癒される数日間でありました。実は三人とも武蔵野教会の会員でもあります。彼らは私たち以上に純粋であり、より神に近い存在であると感じさせられました。彼らは周りの人たちによって助けられなければ生きていくことができません。そして、彼らは受けたもてなしを、それと同じ形ではお返しすることはできません。しかし、私たちは、彼らと交わることによって、大きな恵み、慰め、あるいは逆に励ましを与えられるのであります。
 私たちは、本日の主がなさった譬えを、覚えつつ主が約束されている終りの日のメシアの宴会に与るべく、周りの人々に仕える日々の歩みをなしていきたいものだと思います。祈りましょう。
 天の父なる神さま。
 あなたは、私たちに一度しかないこの地上の命を与えられました。この命をあなたの御用のために用いていくことができますように私たちを強めてください。キリストによって祈ります。アーメン。

望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みにあふれさせてくださるように。


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2007/09/02(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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