津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神の真実に生きる」(ルカ12:49~53)内海望牧師
ルカ12:49-53、2007・08・19、聖霊降臨後第12主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書23:23-29、ヘブライ人への手紙12:1-13

ルカによる福音書12:49~53
 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
 父は子と、子は父と、
 母は娘と、娘は母と、
 しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
 対立して分かれる。」

 
  説教「神の真実に生きる」(ルカ12:49~53)内海望牧師
 ルカ12:49-53。私たちはこの箇所でのイエスさまの口調の激しさに驚きます。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」とおっしゃるのです。私たちのイエスさまに対するイメージが壊されてしまう感じがします。
 しかし、聖書の伝えるイエスさまの姿は「小羊を懐に抱き、杖を手に持つ優しい姿」のみではありません。もしそのようなイメージだけがイエスさまの姿として私たちの心に定着し、そのため今日の聖書のイエスさまに違和感を感じているとすれば、それは、私たちが「私たちにとって願わしいイエスさま」を勝手に思い描いているのであって、イエスさまを自分に都合よく作り変えてしまっていることになるのです。恐ろしい冒涜です。そこで、今日は、虚心にイエスさまの言葉と向かい合いたいと思います。
 イエスさまは、人間の犯した罪に対して、「もし、右の目があなたを躓かせるなら、えぐりだして捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれないほうがましである。」とおっしゃる方です。律法の一点、一画もおろそかにされないで、私たちの罪を抉り出す方なのです。また、祈りの家である神殿を商売の家にしている人々には縄で鞭を作り、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒し、追い出される激しい方でもあるのです。聖書の神さまは真実と義なる方なのです。イエスさまもそうです。
 今日の日課でエレミヤは、「わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。・・・わたしは、わが名によって偽りを預言する預言者たちが、『わたしは夢を見た、夢を見た』と言うのを聞いた。」と言っています。預言者は人々に喜ばれる、口当たりの良い夢のような言葉で偽りを語り、偽りの神を示すと言う意味です。実際、偽預言者は、「おとめなるわが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに『平和、平和』と言う」(8:11)とエレミヤは嘆きます。
 エレミヤは神さまの真実をもって民の罪を弾劾し、悔い改めを迫るのに、偽預言者は、「心配しないでいいよ。神さまは何でも見逃して下さる愛の方だ。」と「安し、安し」と手軽に治療しようとするのです。これは、病原体が体の奥底にまで侵入し、内部から身体を蝕んでいる時、メスを深く身体に入れ、病原体を抉り出すことしか治療法がない病人に、「大丈夫、大丈夫」と表面に絆創膏を貼って済ませるようなものなのです。病人にすれば痛い思いをするよりは、メスより絆創膏が好ましいにきまっています。
 ところが、エレミヤは断固として、神さまの真実の言葉を語ります。彼は、「神さまの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか」と言い切るのです。イエスさまが、『・・・火を投ずるために来た』とおっしゃった言葉と同じです。
 エレミヤが真実を語るので、民の敵意を買い、見捨てられました。人々に笑いものにされ、暗殺におびえる日々でした。エレミヤは神さまの真実に対して真実に従おうとした時、彼は全くの孤独に落とされてしまったのです。神さまの真実と人間の間で苦しんだのがエレミヤでした。
 福音書に帰ります。イエスさまは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」とおっしゃいました。これは、エレミヤが神さまの真実をもって民に対した姿と同じです。火はこの地の罪を焼き尽くす恐ろしい神さまの怒りなのです。神様の言葉は「岩を打ち砕く槌のように」激しく人間に迫るものなのです。私たちは、神さまの真実の前では、打ち砕かれる岩なのです。神さまの裁きを侮ってはいけません。イエスさまも、「平和だ、平和だ」と偽りの中に生きている私たちに神さまの真実をもって迫って来られるのです。恐るべき神の裁き!
 しかし、イエスさまのみ言葉は、エレミヤと違い、ここで終わりません。確かにイエスさまは、「焼き尽くす火」を、この世に投じられたのです。しかし、すぐ後に、「しかし、私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」とおっしゃっています。これは「飲むべき(苦い杯)」を指します。
 これは、イエスさまの十字架の苦しみと死です。イエスさまはご自分の十字架と死によって、神さまの岩を打ち砕く槌を人間に代わって受け留めようとされているのです。「人の子は、仕えられるためでなく仕えるために、また多くの人を身代金として自分の命を献げるために来たのである。」とイエスさまはおっしゃるのです。「どんなに苦しむことか。」というイエスさまの言葉は「ゲッセマネの祈り」であり、「十字架上の祈り」です。神さまの真実の前には、打ち砕かれ、滅ぼされるほかはない私たちです。しかし、イエスさまの真実の愛は、私たちのために十字架上で執り成しの祈りを続けられる姿に現されます。
 イエスさまの投ずる火はメスなのです。私たちを何とか死に到る病から救おうとする癒しのためのメスです。ここに到って、私たちは、自分たちの罪の深さ、病状の重さに気付くのです。もはや絆創膏を貼って済ませるわけにはいきません。
 今や、神様の真実によって、心の奥底まで打ち砕かれ、悔い改める時です。その時、死すべき私をイエスさまの十字架によって癒され、イエスさまの真実の愛に復活する新しい私を見出すでしょう。新しいいのちが、確かな足取りが与えられます。「罪に死んで、キリストの愛に甦ること」こそ、イエスさまが命をかけて私たちに行って下さったことなのです。大胆に神さまの真実に打ち砕かれ、もっと大胆にイエスさまの十字架の愛に信頼しましょう。
 「いまさら新しく生きるなど、とても」とためらわないで下さい。イエスさまが、「さあ、新しく生きよう!」と呼びかけて下さっているのです。この恵を信じて立ち上がりましょう。そして、共々神さまの真実に生きる爽やかさ、喜びを経験しましょう。 
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2007/08/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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