津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「神の前に豊かな人生」(ルカ12:13~21)原拓也牧師
ルカ12:13-21、2007・08・12、聖霊降臨後第11主日礼拝(典礼色―緑―)
コヘレトの言葉2:18-26、コロサイの信徒への手紙3:5-17

ルカによる福音書12:13~21
 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってはどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」




  説教「神の前に豊かな人生」(ルカ12:31~21)原拓也牧師(元西日本福音ルーテル教会牧師)

  本日の出来事の発端は、ルカ12:13-14節に出てきますが、民事や政治についての判断や助言を、宗教指導者に求めることは当時は普通のことでありましたが、この出来事はイエスがある人々の間では、宗教指導者と認められていたことを示しています。
  ルカ福音書12:15節以下は貪欲に関する教えであります。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。・・・人の命は財産によってはどうすることもできない。」ここで、「命」と訳されているのは、英語では普通「life」と訳される言葉です。「貪欲は偶像礼拝に他ならない」(コロサイ3:5節)。藤木正三氏は言われます。「獲得の喜びと生命の喜びとは別であることに注意しよう。獲得の中で生命はむしろ不完全燃焼をかこっているのではないか。燃焼とは本来他に仕えることである。」
  さて、主イエスのなさった譬え話(ルカ12:16-19節)に移りましょう。この金持ちの人となりと生き方を見てみましょう。ところで、まず、言えますことは、神は怠け者の畑に豊かな作物をお与えになることはないのであります(箴言6:9-11、19:15)。しかし、この金持ちは怠惰な生き方をしてはいなかったし、浪費家でもなかったでありましょう。12:18から見ますなら、生活設計ができる人でありましょう。また、宗教的にも几帳面な生き方をしていたかもしれません。
  では、この人の根本的な過ち、すなわち、神から「愚か者」と言われた理由は何でありましょうか。それは、原文を見ると「私の穀物」「私の財産」(18節)、あるいは「自分に言ってやる」(19節)「自分のために」(21節)というところにあるのであります。彼の関心は「自分に(だけ)」向けられていたのであります。
  さらに、彼は金品と霊魂とを同じレベルで、等価的に考えたのであります。ところで、19-20節で、普通「霊、霊魂、魂」と訳される言葉が、そのような形では訳されていません。19節を原文で見ると、「私の魂に向かって言おう」ですが、新共同訳では「自分に言ってやる」となっており、「魂よ」は「さあ」と訳されています。新共同訳だとここの教えの真意が十分には伝わりません。しかし、ここに、この人の生き方が聖書の教えと大きく異なっていることが分かるのです。
  ルカ12:20節は、警告の言葉であります。この教えを聞いて、この出来事の発端となった「調停の依頼人はどしたか?」、聖書には何も書かれていません。聖書が何も書いていないということは、この依頼者がどうしたか?ではなく、あなたがこの教えを聞いてどうするかが、神さまから問いかけられているのであります。すなわち、ここで語られているのは単なる「譬え話」ではなく、あなたへの問いかけであり、期待なのであります。
  それでは、次にどう生きるのかを、本日の使徒書の朗読、コロサイの3:5-17から聞いてみましょう。「だから」という言葉で始まる今日の日課は、3:1-4を受けています。「あなたたちは、キリストの命の中にあって、『今』を生かされている(1-4節)。「だから・・・」「上にあるものを求めて生きよ」というのが原則です。
  3:5-17節は、具体的な生活の場でのあり方であり、5-11節はその消極的な面であり、12-17節は積極的な面です。
  最後に、神の前に豊かな人生の三要件について考えてみましょう。第一は、信仰すなわちキリストに生かされることによって、私たちは、「自己中心、自我」解放され、上にあるものを求めて生きるものとされます。第二に、愛の奉仕すなわち、「自分」から解放されたときに、初めて私たちは「他者」に関心を向ける者となります。ルターはこう言います。「信仰から、主における愛と喜びが流れ出て、愛から隣人に仕えようとする快活で喜ばしく自由な精神が流れ出る。」第三に、神の時を弁えて生きるということであります(コヘレト3:1-8)。私たちは時間と空間の中に生かされています。故に、「今、ここで、このこと(この人)に、何をなすべきか」を弁えて生きる知恵が必要とされるのであります。たとえば、受難を前にした主イエスにナルドの香油を注いだ女(マルコ14章3-9節)のことを思い出してください。
  しかし、私たちの現実の在りようはどうでありましょうか。「私たちは皆、しばしば過ちを犯す」(ヤコブ3:2)ものであります。それゆえに、私たちは、救い主を必要とし、イエス・キリストを告白しながら生かされてゆくのであります。
  


スポンサーサイト
2007/08/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。