津田沼教会 牧師のメッセージ
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「世界平和ーお互いを大事に思う心から」(ヨハネ15:9~12)
ヨハネ15:9-12、2007・08・05、平和の主日
ミカ書4:1-5、エフェソの信徒への手紙2:13-18

ヨハネによる福音書15:9~12
 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

ミカ書4:1~5
 終りの日に
 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
 どの峰よりも高くそびえる。
 もろもろの民は大河のようにそこに向かい
 多くの国々が来て言う。
 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
 主はわたしたちに道を示される。
 わたしたちはその道を歩もう」と。
 主の教えはシオンから
 御言葉はエルサレムから出る。
 主は多くの民の争いを裁き
 はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし
 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず
 もはや戦うことを学ばない。

 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
 いちじくの木の下に座り
 脅かすものは何もないと
 万軍の主の口が語られた。
 どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
 我々は、とこしえに
 我らの神、主の御名によって歩む。

エフェソの信徒への手紙2:13~18
しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血において近い者となったのです。
 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。



説教「世界平和―お互いを大事に思う心から」(ヨハネ15:9~12)
 本日は、JELCでは平和の主日とされています。これは、言うまでもなく、1945年8月6日と8月9日に、広島と長崎に原爆が落とされ、何万という人が瞬時になくなり、そして8月15日に日本が全面降伏し敗戦を迎え、第二次世界大戦が終わったことを、思い起こし、平和を祈願する日として、一年に一度置かれているものです。世界では今も戦争はなくなったわけではなく、多くの地域、世界のあちこちで戦火は絶えず、紛争が続き、尊い人命が奪われていることを思い起こさねばなりません。
さて、この平和の主日に与えられている聖書の個所は、先ほどお読みいただき、また、福音は私が読みましたように、ミカ書4:1-5、エフェソの信徒への手紙2:13-18、そしてヨハネ福音書の15:9-12であります。
ミカ書4:1-5の記事は、イザヤ書の2章の始めにも同じような記事が出てきますが、これらは同じ伝承を受け継いだものと考えられます。ミカ書4:1-5では、すぐ前の3章まで、イスラエルがバビロン捕囚に遭う悲惨な出来事を前提に、イスラエルに対する神の審判が記されていますが、4章に入ってからのの記事は、終わりの日々において、終末のときに起こる出来事を約束として、イスラエルの人たちを慰めるために書かれたものであります。終わりのときに、神自らが平和をもたらすというのであります。主なる神は諸国民を裁き、諸国民は、エルサレムへとやって来る。そして、シオンの山は、もろもろの山よりも高く上がり、国は国に向かって戦うことを学ばなくなる。そして、剣を引き伸ばして、鋤とし、槍を打ち伸ばして、鎌とする。有名な言葉で、国連本部にも記されている言葉であります。諸国民はシオンに向かって、また、エルサレムにおいてやって来る。諸国民はその神を拝みながら歩むが、私たちイスラエルの民は、永遠に主なる神を礼拝しつつ歩むというのであります。
次に、エフェソ2:13-18は、キリストが平和の主であり、双方の隔ての中垣、敵意という壁を主キリストが取り壊し、十字架の血と死によって、お互いを和解させ、一致に向かわせた。それで、神に向かって私たちは、一つの霊において近づくことができるようになったというのであります。神と人間との間の隔たりでありましょうか、それともユダヤ人と異邦人との隔たりでありましょうか。あるいはそれは、さらにあらゆる異なる人間間の隔たりを、主の十字架の死がその間の敵意を殺して、なくしてくださったということであります。
そして、本日の福音、ヨハネ15:9-12は、主イエスがぶどうの木にご自身を譬えられた告別説教の中の一節であります。父が私を愛されたように、私はあなた方を愛した。あなた方も、私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさいと主は勧められます。私たちが教会において、この共同体において、弟子として、また兄弟としてお互いに大事にし合うようにという新しい掟、命令であります。それは、イエスの喜びが私たちにあり、私たちが喜びにあふれるようになるためであると言われます。まず、教会の中にいます私たち主の弟子であるもの同士が、相違点はあっても和解しあい、愛し合っていくときに、平和が実現して行きます。平和とは、ヘブライ語でシャローム、ギリシャ語でアイレーネーでありますが、それはいずれも混沌カオスの反対であり、平和な時代という時間的な問題ではなく、関係を問われる問題であります。そしてそれは、福音記者ヨハネによれば、私たち主の弟子の間で、主イエスの私たちに対する測り知れない愛を同じように実現するときに、平和が、喜びが、そしてまったき救いが実現するのであります。
いわば教会から世界平和が始まると本日のヨハネ福音書の記事は約束してくれているのであります。世界は、旧約聖書、新約聖書が考えも及ばなかったであろう原子力爆弾、あるいは水素爆弾を発明し、使用してしまうとことまで、来てしまいました。しかし、根本的には、私たちの心の中、あるいは身内や身近なところから始まるう憎しみや争いから、戦争は始まるのであります。経済格差や、南北問題など解決しなければならない世界規模の問題も差し迫っています。平和憲法を守り、国連の強化や、世界連邦の運動のようなことも必要でありましょう。しかし、それらの根本には、私たちは、本日の福音が語るように、主イエスが愛された教会である私たちの兄弟間でまずその愛をお互いに実現して行くことから、真の平和である調和、救い、最終的な平和が生まれるのであります。
父なる神さま。
私たちの津田沼教会において主イエスが示してくださった愛を実現していくことができますように。そして、各人の家庭で、また、身近な兄弟相互の交わりにおいて真の平和を達成して行くことができますように。これから、聖餐に与りますが、罪の赦しと和解のために備えられたこの恵みと救いの手段を感謝して受けさせ、隣に立つ兄弟の罪の赦しのためにも祈ることができますように。キリストによって、アーメン。
平和と信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。


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2007/08/05(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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