津田沼教会 牧師のメッセージ
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「必要なものはひとつだけ」(ルカ10:38~42)
ルカ10:38-42、2007・07・29、聖霊降臨後第9主日(典礼色―緑―)
創世記18:1-14、コロサイの信徒への手紙1:21-29

ルカによる福音書10:38~42
 一行が歩いていくうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」



説教「必要なものはひとつだけ」(ルカ10:38~42)
 
先週は、「よきサマリア人の譬え話」を中心に学びました。辛苦にあえいでいる人を助け、よき隣人になる、そして、自分自身のように隣人を愛する者になることの難しさを考えさせられる主イエスの譬えでありました。本日の福音の記事は、その譬え話に続くエピソード、出来事であります。ところで、先週の律法の専門家が尋ねた永遠の命を受け継ぐためにどうすればいいですかとの質問に対して、聖書にどう書かれているかに対する答えは、まず第一に、「あなたの心、魂、力、思いのすべてを尽くして、あなたの主なる神を愛しなさい」ということでありました。
 本日のエピソードは、この第一の命令に関わることとして、ここに記されているとも考えることができます。本日の出来事、そして、主の語られたみ言葉をしばらくご一緒に考えてみたいと思います。ルカによれば、主イエスは、よきサマリア人の譬えを語られた後、弟子たちとさらに進んで行かれ、ある村に入られます。そして、マルタという女性が彼を迎え入れます。マルタという名は当時珍しくなく、ベタニアの村の共同墓地からもその名が見られるということであります。女主人とか、婦人とかいう意味の名前であります。
そして彼女には、マリア、ミリアムという名の姉妹がいて、主の足下に座って、ずっと彼の言葉に耳を傾けていたのであります。まだ、食事の準備が整っておらず、主はみ言葉を語っておられたのでありましょう。マリアは、女の弟子として主の足下にずっと座って聞き続けているのであります。それに対して、マルタは、給仕、食事の準備で多くの荷を負いすぎていたと記されています。
本日の第一の朗読、旧約聖書の日課では、アブラハムとサラがそれとは知らないで三人の旅人、天使を家に招き、もてなしをするという美しい物語が読まれました。日本でも戦前、戦後あたりまでは旅人や客人を家に招いて食事を出したり、もてなしをするという習慣が残っていましたが、最近では失われてきたようであります。もてなしをするということ自体はとても良いことであります。けれども、マルタはあまりにも多くの奉仕に忙しすぎたのであります。
マルタはそばに立って、主に言います。「あなたはなんともお思いにならないのですか、マリアは私にだけ奉仕をさせて放っています。彼女に私を手伝うようにおっしゃってください。」主はそれに対して言われました。「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことどもに、心を煩わし、気を散らしている。必要なものはただ一つだけであり、なぜならば、彼女はそのよい方、良い部分、あるいは良い皿、良い分け前を選んだのであり、それは彼女からとりさってはならないのである」と。
 これは、ヨハネによる福音書の11章、12章に出てくるベタニアの姉妹、マルタとマリア、あるいはその兄弟ラザロの物語での姉妹と同一の性格を示しています。ただし、ルカは9章の51節から、エルサレムへの旅のごく初期に起こった出来事として記し、ある村とだけ書いたのでありましょう。
 必要なものは一つであり、なぜならば、マリアは良い方を選んだからだとありますが、この良い方というのは、食事の割り当てられる分とか、あるいは、「主は私に与えられた分」(詩編)と言ったりしますときの大事な表現・言葉であります。主イエスにもてなしをする、そしてその肉体的な必要を満たす奉仕、ディアコニアもなくてはならないことであります。しかし、主イエスは、自ら「私は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのである」と言われます。そして、主のみ国の言葉に耳を傾けることこそが、欠けてはならない、弟子にとっての唯一つのことであります。それは、マリアから取り上げてはならない、取り去られることはないであろうと、主はやさしくマルタをたしなめられるのであります。
 しかし、日常を振り返ってみますとき、私たちキリスト者の生活は、マルタとマリアの両方の生き方の中で迷いに迷っているというのが、現実ではないでしょうか。み言葉に聞くことに専念して歩みたいと思いますが、それ以外のさまざまなことにも追われて、私たちは忙しく過ごしています。そして、いらいらして心が乱れ、思い煩うことの多いのが現実ではないでしょうか。そして、主はそのことをも、よくご存知であります。私たちの置かれた現実の毎日の生活の中で、少しでもマリアのように主の足下に座り、主の言葉に集中する時を持ちたいと思います。ある人にとってはそれは、毎日一日の初めに、あるいは夜眠る前に、あるいは短い聖書の1章を読むことであるかもしれません。あるいは、クリスチャンの家庭であれば、聖書日課を使ってささやかな家庭礼拝を夕食の前などに持つことであるかもしれませんし、あるいは、仕事に追われて主日礼拝で説教を聞くのが精一杯という方もおられるでしょう。私たちはそれぞれの置かれた状況の中で、マリアの主の言葉に没頭する姿勢に優先順位をおきながら、マルタの人々に対するもてなしやディアコニアにも、心乱れずに喜んで従事する、そのような生活を、絶えず、み言葉に立ち返りながら送っていきたいと願うものであります。そのような意味で、どうしても「必要なものはただひとつ」であることを本日もう一度確かめたいと思います。
祈りましょう。
 天の父なる神さま。
 私たちは、多くのことに手をつけ、気を散らされ、それに振り回されながら生きています。ですが、どうか、それぞれの境遇の中でも、主の言葉を優先して、常にみ言葉と共に平安のうちに日々を送るものとならせてください。キリストによって祈ります。アーメン。
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。





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2007/08/04(土) 11:57:11| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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