津田沼教会 牧師のメッセージ
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「慈悲を行う者は命を得る」(ルカ10:25~37)
ルカ10:25-37、2007・07・22、聖霊降臨後第8主日(典礼色―緑―)
申命記30:1-14、コロサイの信徒への手紙1:1-14

ルカによる福音書10:25~37
 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリヤ人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


説教「慈悲を行う人は命を得る」(ルカ10:25~37)

 本日、与えられている福音の記事は、キリストのなさった譬え話の中でもあまりにも有名な「よきサマリア人の譬え」と言われる記事であります。本日の記事は、主イエスが、ルカ9:51以後でありますから、主が既にエルサレムに顔を向け、十字架にかかり、天に上げられることを自覚して、エルサレムに向かっての旅の途上において、起こった出来事であり、また、なさった譬えであります。
 本日の記事は、ルカ10:25-29と30-37に分けられます。「そして、見よ、ある律法の専門家が立ち上がって、主イエスに質問した。『私は何をしたら、永遠の命を受け継ぐでしょうか』」との出だしで、本日の記事は始まっています。何か大きな業績をあげたり、華々しい行いをすれば、それで、永遠の命、メシアの神の国を受け継ぎ、得ることができるかのように彼は考えていたのであります。
 それに対して、主は言われます。「何と律法に書いてあるか。あなたはそれをどのようなものとして読んでいるのか。」彼は答えます。「あなたの主なる神を、あなたのすべての心から、あなたのすべての魂において、あなたのすべての力において、あなたのすべての思い、理解力によってあなたは愛せよと。これは、申命記の「聞け、イスラエルよ」で始まる有名な言葉で、律法ノモスの専門家ノミコスにとっては自明なことでありました。そして彼は「それと、あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」と加えたのであります。レビ記19:18にある言葉です。主は、あなたは正しく答えた。それを行えと命じられたのであります。
 ところが、この人は、自分の立場を擁護しようと思って、「そして(では)、私の隣人とは誰ですか」と問い返したのであります。主がよき教師としてどのように答えられるか、さらに食らいついてきたのであります。そして、それへの応答として、主はあまりにも有名な「よきサマリヤ人の譬え」を語られるのであります。この譬えをめぐっては、実はこれは史実ではなかったかと考える人もいます。と言いますのも、主は、他の箇所で、祭司やレビ人を悪く言っていることがないこと、また、そのような事件が、近世にいたってもしばしば起こった場所であるからであり、また、主イエスはこのあと、ベタニアの村に入られますから、こらはそのような事実があり、それを主が持ち出して話されたというふうなこともありえたことでありましょう。主は、律法(ノモス)の専門家(ノミコス)の質問に応じてこの物語を語られたのであります。
エルサレムから、エリコの平原まで900メートルほどくだりますし、距離としては30キロメートルほどもあります。蜂の巣状の岩肌や、ほら穴がある峡谷であります。そしてある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、追いはぎどもの手に落ちたのであります。   
この人はもちろん、衣服をはぎ取られたりするのに抵抗しましたが、それに対して殴打を加えられ、追いはぎたちは、半死人の彼を残して立ち去ったのであります。
祭司が時を同じくして下って来つつありました。エリコの町がヘブロンのように、いわゆる祭司の町であったかどうかは確かではありません。さて、この祭司は彼に気づくと、自分も襲われると思ったのか、あるいは、自分も追いはぎと誤解されると思ったのか関わりを持つことを避けて、反対側を通って行きます。
同じように、続いてレビ人も彼の方にやって来て、近づいて事情がもっとよくわかったのに、更に冷酷にもそのままにして反対側を過ぎ去ります。
 ところが、おそらく、サマリア方面からエルサレムへ旅行中であったであろうサマリヤ人は、彼の方にやって来て、非常に憐れみ、はらわたが痛むのであります。そして、近づいて、包帯を当てて、やったのであります。オリーブ油とぶどう酒を注いでとありますが、当時は家庭の薬剤として使われ、それらを混ぜて軟膏のようにして使った場合もあるとも言われています。そしてその被害にあった人をロバに乗せ、宿屋にまで運んで行って手厚く世話したのであります。
そして翌日、出かける前に、宿屋の主人に2デナリオン、今で言えば2万円くらいを渡して、なお余計にかかったら、わたしの帰りがけに、自分の責任として払いましょうと伝えて出て行ったのであります。この三人のうちで誰が彼の隣人になったとあなたには思われるかと尋ねられると、もちろん、この律法の専門家は、慈悲を行った人、彼を助けた人だと思いますと答えます。そして主は、あなたも行って同じようにしなさいと言われるのであります。これは、現在形の命令形で書かれていまして、一生繰り返し繰り返しそのように行いなさいということであります。
 私たちは、この記事を読むとき、三浦綾子氏の「塩狩峠」の主人公や自分の命を落として他人を救った人等の事件をすぐ思い起こしがちなのでありますが、大事なことは、普段に私たちが与えられている日常の中で、辛苦に苦しんでいる人に慈悲を行い、助けることであります。そして実はその生き方を、最後は私たちの罪のための十字架の死ではありましたが、生涯、日常の中で実践し続けたのは、この出来事を語っておられる主イエス御自身であります。
私たちは、どうしても自己中止の生き方になりがちで、人の痛みを十分に理解できない弱い者でありますが、繰り返し今日の記事、出来事を思い起こし、助けを必要としている人の近い存在に生涯なっていきたいものであります。
人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。






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2007/07/22(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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