津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「救い主を証しする道とは?」(ルカ9:18~26)
ルカ9:18-26、2007・07・08、聖霊降臨後第6主日(典礼色―緑―)
ゼカリヤ書12:7-10、ガラテヤの信徒への手紙3:23-29

ルカによる福音書9:18~26
 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」



説教「救い主を証しする道とは?」(ルカ9:18~26)

本日の福音ルカ9:18-26は、質問の部分18-19節と信仰告白の部分、20-22節と、訓戒の部分、23-26節に分けられます。
 ルカは、マルコでは間にはさまっている多くの出来事を飛ばして、5000人の給食の記事の後にいきなり、本日の出来事、み言葉を記しています。それは、そんなに大きな奇跡を行われる方が、どんな方であり、どんな救い主であるかを、ルカは伝えたかったのだと思います。
 主イエスは、病気や悪霊や自然を支配するお方でありますが、それ以上に、人間の本性といいますか、人間の本質の秩序そのものをただそうとして来られた救い主であります。
 人々は、私のことを何と言っているかと、祈りの後に、弟子たちに尋ねる出来事が起こります。フィリポ・カイザリアでのことであったかどうかは、ルカは記しません。その場所や、時間を越えて、今もなお、「私はなにものであるか」と私たちに問われている方、それが、主イエスであります。人々は、ヨハネだとか、終わりの時に来るエリヤとか、昔の預言者だといっていると弟子たちは報告します。
 しかし、それでは、あなた方にとって、私は何なのかと、問われたのであり、今も問われているのであります。「神のメシア」ですと、ペトロは、正しい見方を示しました。私たちの罪をになう救い主であります。けれども、主イエスは、そのことをだれにも話してはならないと答えられたのであります。それは、政治的な救世主だと人々が誤解するからであります。今ではどうでしょうか。やはり、今も、私たちは、軽々しく主イエスをメシアだ、救う主だというべきではないのであります。魔法を使って、私たちを一気に幸せにするお方ではないのであります。それどころか、主はご自分がどんなメシアかを告白なさいます。人の子は、最高法院によって無価値と宣言され、多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活させられることになっている。そして、主のご受難のときペトロが三度も主を知らないといい、裏切ることになることも、既に神の摂理、配剤の中にありました。イザヤ書53章にあるように苦しむ僕として、主イエスはおいでになられた方であったのであります。
 主は、最後に、弟子たちを訓戒して言われます。私に従って来たい者は、自己を否定し、日々、自分の十字架をになって、私についてきなさいといわれるのであります。私たちは、自分の人間としては自然な、野心とか利害とか自己中心の利己的な愛から、それを否定して、主のように、私たちも各人の十字架を負わねばならないといわれるのです。それは、罪に死んで、復活の主と共に生きるためであります。
 たとえ、全世界を得ても、自分を滅ぼしたり、失わされては、何にもならないのであります。主イエスのために、命を、利己的な命を捨てる者は、永遠の命を主から受けるのであります。そして、主イエス御自身とその言葉を恥じる者は、終りの日に主が父と天使たちと共に栄光においてこられるとき、人の子、主イエスもその者を恥じるといわれます。私たちは、自己中心であることをなかなかやめることができません。しかし、日々、それに死んで、罪に死んで、主と共に生きることが、最も幸いであり、周りの人々にも、救い主を証しする道となるのであります。私たちは、どこにおいても自分が主人になりたいと望みがちです。しかし、相手に仕えることによって、また、隣人を助けることによって、本当の幸いな道、心の満たされた平安な道を歩むことができるのです。
主イエスのことを恥じず、その言葉を大切にしながら、終わりの時、裁きの日に、主イエスをまっすぐに仰ぎ見る証しの道、苦難の道、しかし、本当は最も平安で幸いな道を今週もこの場から、一週間歩んでいきましょう。
 
父なる神様、今朝もあなたのお言葉、主イエスのお言葉を聞く幸いを与えられ、有難うございます。どうか、しっかりと立って、主を証しする道を今週も新たに歩ませてください。キリストによって祈ります。

私たちの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
 
スポンサーサイト
2007/07/08(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。