FC2ブログ
津田沼教会 牧師のメッセージ
「罪赦された者の応答」(ルカ7:36~50)
ルカ7:36-50、2007・07・01、聖霊降臨後第5主日(典礼色―緑―聖餐式あり)
サムエル記下11:26-12:13、ガラテヤの信徒への手紙2:11-21

ルカによる福音書7:36~50
 さて、ファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話になった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人は返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。


説教「罪赦された者の応答」(ルカ7:36~50)
 ルカ福音書は、特に罪人の悔い改めが強調され、また社会的に弱い者や貧しい人に福音が告げられるといった特徴が目立つ福音書であります。そして今日の個所は特にそのようなルカらしい内容をもった部分であります。本日の記事は、ルカだけが詳しく記している出来事や譬えを含んでいる記事であります。他の福音書にも、本日のルカの記事とよく似た出来事はありますが、本日のルカの記事は、ルカが独特な場合として記したものと考える方がふさわしいと思います。
 あるファリサイ派の人が、主イエスと食事を共にしたいと招いたので、主イエスはその人の家に入り食卓のまわりに、―あるいは長椅子があったかもしれませんー、当時の習慣に倣ってそこに体を横にして待っておられたようであります。「そして、見よ」と元の文では続いています、主イエスがその家に食事に招かれたことを聞いたその町のある罪深い女性、多分売春婦であったでありましょう、その女性が入ってきて、泣きながら涙を流し、主イエスの足をぬらし、今度は自分の長い頭の髪の毛で、足をふき、足に接吻をし、そして石膏の壺に入った香油を塗り始めたのであります。
 そのファリサイ派の人は、この人が預言者なら、この女が誰で、どんな種類の者か分かるはずだと心の中でつぶやいたのであります。主イエスはそれに気づき、言われます。「シモン、あなたに言いたいことがある。」シモンは答えます。「先生、おっしゃってください。」
 それで主は言われます。「ある金貸しがいて、一人の借り方は500デナリオン、―500万円くらいでしょうかー、そして、もうひとりの借り方は50デナリオン借りがあったが、返せなかったので、貸主は二人とも免除してやった。どちらがより多く、彼を愛するであろうか」と。シモンは、「より多く免除してもらった方だと思います」と答えます。もちろん、主イエスは「あなたは正しく判断した」と言われました。そして、シモンと罪深い女について語られるのであります。「あなたは、私が家に入ったとき、足を洗う水を私に与えなかったが、この女の人は、涙で私の足をぬらし、頭の髪の毛でふいてくれた。あなたは私にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は、私の足に香油をぬってくれた。あなたは私に歓迎の接吻をしてくれなかったが、この人は私の足に接吻してやめようとはしなかった。」そして、主イエスは、元の文を見ますと、こう言われるのであります。「この人の多くの罪は赦されている、その結果、彼女はより多く愛したのである。少なく赦された者は少なく愛するものだ」と。この部分は、以前の口語訳聖書では、「彼女は多く愛したので、その多くの罪は赦されているのである」というふうな訳になっていました。しかし、文脈からも、聖書、とくに新約聖書の考え方からも、新共同訳聖書の方がふさわしいのであります。
そして、さらに主は女の人に向かって「あなたの罪は赦された」と宣言します。同席していた食卓仲間の者たちは、罪をも赦すこの人は何者なのだろうと考えました。しかし、主は「あなたの信仰があなたを救った。平安へと出て行きなさい」と言って送り出されたのであります。
 この本日の記事を読みますときに、私は、私自身の洗礼に至った出来事を思い起こします。確かに、多くの罪が赦されることから、私たちの新しい生涯は始まるのであります。そして、そのことへの感謝が生まれ、主イエスを愛するという、罪赦されたことへの応答の生活が始まるのであります。しかし、私たちは、残念ながら、信仰生活に入れられましても、1週間の間にも、罪を繰り返して生きざるを得ない弱い面を持っています。
そこで、本日の主日の祈りにありましたように、罪に陥った時に、そこから立ち返るように、主に祈り求めるしかないのであります。聖餐式が本日は与えられています。主イエス・キリストの体とその尊い血によって、私たちの罪は赦されるのであります。ルターは、「大胆に罪を犯せ、しかし、それ以上に大胆に悔い改めよ」と言いました。私たちはその機会を主日ごとに与えられているのであります。
 既に、主によって私たちのどのような罪も赦されているのであります。そしてそれに応える形で、私たちは、愛と感謝の生き方を与えられ、神と人とを愛する生き方へと変えられているのであります。確かにそれぞれの1週間の間にも、しばしば、挫折し、罪を犯し、倒れる者ではありますが、そのつど、大胆に悔い改め、希望を失わず、立ち直らされて歩む者でありたいと思います。
 天の父なる神さま。
 この過ぎ去りました1週間にも、さまざまなことがありました。弱り果て、絶望したこともあります。しかし、あなたは、私たちのすべてをご存知で、罪を赦してくださり、私たちは、毎週、み言葉を与えられて立ち上がり、平安のうちに、あなたの見守りのうちに再び出て行くことができますことを感謝いたします。どうかこの1週間もあなたが導いてください。キリストによって祈ります。アーメン。
 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

 
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://tsudanuma.blog2.fc2.com/tb.php/222-d68dbe12
この記事へのトラックバック