津田沼教会 牧師のメッセージ
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「死を滅ぼす生命の主」(ルカ7:11~17)
ルカ7:11-17、2007・06・24、聖霊降臨後第4主日(典礼色ー緑―)
列王記上17:17-24、ガラテヤの信徒への手紙1:11-24

ルカによる福音書7:11~17
 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

説教「死を滅ぼす生命の主」(ルカ7:11~17)
 本日、聖霊降臨後第4主日に与えられました福音書の個所は、先週に続くルカ7:11-17であります。カファルナウムでの先週の百人隊長の信仰についての記事から、本日の出来事は、その後しばらくして、起こったことには、主イエスはナインと呼ばれる町へと進まれた、そして彼の弟子たちも、そしてまた、大勢の群衆もそうしたのであります。すると、ちょうど町の門、一個所であったかもしれませんそこに、あるやもめの一人息子が死んで、運ばれつつあり、やもめが喪主として先頭になって、遺体が続き、町の大勢の者が、泣き女なども一緒でしたでしょう、主イエスの一行と向かい合って次第に迫ってくるのであります。主イエスは、そのやもめの上に、はらわたがうずき、言われるのであります。「もう泣かなくともよい」と。
私たちは、他人の死と遺族の悲しみに対して、主イエスのように、同じ立場に立って、はらわたがうずき、共感するということは、ほとんど不可能のように思います。このやもめと同じところにまで降りて来て、その窮境を本人と同じ思いで憐れむということは、残念ながらできないのであります。この「憐れに思う」という言葉は、主イエスとそのなさった譬え話における人物、たとえば、よきサマリヤ人の譬えや放蕩息子の父親などのような場合においてのみ用いられる、内臓が痛むという意味から来ている言葉であります。いわば、神にのみ用いられている言葉と言えましょう。
 さて、主は、近づいて行かれ、棺に触れられ、―この棺は、遺体を運ぶ担架のようなものであったでしょう、―すると、運んでいる者たちも当然止まったのであります。そして、「若者よ、私はあなたに言う、起き上がりなさい」と一言、命じられるのであります。死んだ人が生き返る出来事は、今日の第一朗読の列王記上17章にも出てきます。エリヤは、やもめの一人息子が死んだ時、その子のうえに身を三度重ねるようにして、主なる神に、この子を命へと戻してくださいと祈ると、その子は生き返ったのであります。しかし、主は、明瞭に一言、「若者よ、あなたに言う、起きなさい」と命じただけで、その息子は起き上がり、ものを言い始め、主は彼を彼女にお与えになった、お返しになったのであります。
 私たちは、死者が生き返るということは、ありえないと知っています。しかし、4つの福音書はすべて、死者の生き返りについて、記しています。このナインの息子と、ヤイロの娘と、ラザロの死からの起き上がりであります。これは、私たちが信じている復活ということとは異なる蘇生、生き返りであります。
死んだ者が生き返るということはありえない。しかし、福音書はいずれもそのことが起こったことを伝えているのであります。そして、それに対する反応はどうであったかというと、これに直面したすべての者たち、弟子たち、ついてきた群衆、ナインの町からの群衆、すべての者を、恐れが捕らえたというのであります。そして、この出来事に出会った人々は、神の栄光をたたえて、言うのであります。「大預言者が我々のうちに起こされた」また「神はその民を訪れた」と。そして、彼についてのこの言葉、この話は、全ユダヤとその周辺地方全体において出て行ったというのであります。
私たちは、悲しいことでありますが、死をいつかは迎えねばなりません。本日の若者もその後、いつかまた、年老いて、あるいは病気などで死を迎えたことでありましょう。しかし、主は、死という私たちを悲しみのとりこにするものを滅ぼして、私たちをその束縛から既にこの時から、解き放ってくださっているのであります。
そして、このことの意味は、肉体的には生きていても私たちをしばしばがんじがらめにする罪の闇からも既に解き放ってくださっており、その神の力、主イエスの力によって私たちは新しい命を生きることを可能にされているのであります。そのことを覚えつつ、私たちは、私たちに与えられている二度と来ないこの地上の生命を、日ごとに犯す罪を大胆に悔い改めつつ、本日の命の主イエスと共に幸いに歩みたいものであります。アーメン。望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。
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2007/06/24(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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