津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主の祝福が全世界に」(ルカ24:44~53)内海望牧師
ルカ24:44-53、2007・05・20、昇天主日
使徒言行録1:1-11、エフェソの信徒への手紙1:15-23

ルカによる福音書24:44~53
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。



 説教「主の祝福が全世界に」(ルカ24:44~53)内海望牧師

 今日は昇天主日です。復活されたイエスさまは弟子たちの間に現れ、ご自分が復活し、生きておられることをお示しになられました。そして、40日目に天に上げられたのです。そのことを記念する主日です。
 それにしても、今日の福音書は読むたびに心暖まる箇所です。イエスさまは「手を上げて祝福された。そして祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」とルカはイエスさまの昇天の姿を描いています。一瞬一瞬ごとにイエスさまによって祝福される空間が広がり、ついには全世界を祝福が覆うのです。しかも、「祝福しながら」という現在形が示すように祝福は一度限りでなく、今も全世界に降り注がれているのです。もはやこの世界に暗い影はありません。全世界がイエスさまの祝福の下にあるのです。新しい創造と言ってもよいでしょう。神さまの愛から除外される異邦人という概念はなくなりました。従って、私たちも(東方の異邦人?)この祝福に与っているのです。
 シメオンはみどり児イエスをしっかりと腕に抱き、「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす光だ」と歌っています(ヌンク ディミティス ルカ2章)。
 それにしても、イエスさまは弟子たちから離れてしまったのに、何故弟子たちは喜んでいるのでしょうか。それは、復活のイエスさまの昇天によって、天と地が再びしっかりと結び合わされたことを確信したからです。弟子たちは、イエスさまが祝福しながら天に上げられる姿を見て、この世界が見捨てられた世界ではなく祝福された世界として再びよみがえったことを知り、喜んでいるのです。これが昇天主日の喜びです。弟子たちは「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神さまを讃美していた」と聖書は語ります。
 しかし、このように私たち人間が新しく祝福を受けて喜ぶことが出来るのは、イエスさまの十字架の死という痛ましい出来事が必要であったことを忘れてはいけません。
 私たちは、毎週きまって「思いと、言葉と行いによって罪を犯しました」と告白せざるを得ない人間です。このままの姿では決して祝福に与ることは出来ません。滅ぶべき私なのです。
 倫理的想像力という言葉があります(大江健三郎)。現代社会は想像力を欠いています。まして、倫理的な想像力など誰も気に留めないかのようです。私たちは私たちの「思いと、言葉と、行い」をこの倫理的想像力のもとでしっかりと見据える必要があります。その時、私たちの告白は本物になるのです。
 神さまは、人間の罪を決して見過ごしにはなさいません。一点一画もおろそかになさいません。私たちは、神さまの前では首うなだれるしかないのです。
 ところが、「正義の神」は同時に、「愛の神」であり、何とか私たちを滅びから救い出したいと願っていらっしゃいました。そして、こともあろうに「ひとり子イエスさま」をこの世に遣わして下さったのです。愛の非常手段と呼ぶことが出来るでしょう。イエスさまは神と等しい身分を捨て、私たち罪人に寄り添ってくださいました。そして、僕として、私たちを「下から支えて」下さったのです。
 「下から」とはどういうことでしょうか。
 イエスさまは十字架上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」という叫び(あるいは祈り)を神さまに向かってぶつけられました。この叫びは、「すべての望みを奪い取られた者の叫び」であり、どん底に落ちた者の悲痛な祈りです。私たちにもこのような苦い経験があります。イエスさまは同じ祈りあるいは叫びを経験した方として、私たちを「上から手を伸ばして」ではなく、一緒に泥まみれになりながら「下から」支えて下さったのです。それがこの祈りに凝縮しています。
 十字架上のイエスさまのみ言葉で忘れ得ない祈りがもう一つあります。それは、「父よ、彼らをお赦し下さい」という祈りです。イエスさまは、私たちと共に泥まみれになりながら、この執り成しの祈りを祈り続けてくださいました。この祈りによって、私たち罪人は赦され、新しい祝福を受ける者とされたのです。ヨハネ福音書によると、イエスさまの十字架の苦しみと祈りと死によってイエスさまによる救いの業は「成し遂げられた」(19章30節)のです。イエスさまの苦しみと死と復活によって、この世界は洗い清められ、罪赦された世界として新しい命を与えられたのです。
 私たちは、かくも「高価な恵み」によって救われたのです。私たちが罪赦され、永遠の命を与えられたのは、イエスさまの苦難と死によってであるということを心に刻み込んでおきたいと思います。
 さて、弟子たちは、このイエスさまの死と復活、昇天の出来事を通して再び立ち上がることが出来ました。イエスさまは、弟子たちをこの出来事の承認として用いようとされます。イエスさまは、弱い私たちに聖霊によって力を与えてくださるのです(使徒言行録1章8節)。
 弟子たちは、ペンテコステの朝、この聖霊の力に励まされて大胆に語り始めました。私をも恐れず、イエスさまの十字架と復活によってこの世界に再び祝福が与えられたことを伝えました。このことによって、世界に再び希望がもたらされました。このようにして、教会は世界の希望となったのです。私たちも聖霊の力をかりて、福音の証人として新しく生きましょう。

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2007/05/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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