津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主ご復活の夜に」(ルカ24:36~43)
ルカ24:36-43、2007・04・22、復活後第2主日(典礼色―白―)
使徒言行録9:1-20、ヨハネの黙示録5:11-14

ルカによる福音書24:36~43
 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
 

説教「復活の日の夜に」(ルカ24:36~43)
 
ルカ福音書によれば、週の初めの日、もとの文を見ますと、「安息日どもからの一日目」の早朝に、主は神によって、死人の中から、復活させられ、女たちがそれを天使たちから告げ知らされ、シモン・ペトロに現れ、エマオの途上の二人に現れ、そしてその同じの日の恐らく夜に、11使徒たちと他のクレオパなどのいる複数、多数の中に、三度目に現れるのであります。そして、昇天主日に読まれますルカ24:44-53では、その同じ日の恐らくこれも夜に、弟子たちを教え、宣教を委託し、聖霊を送ることを約束され、オリーブ山へと弟子たちを導いて、主は天に上げられるのであります。実に長い主ご復活の日の一日の出来事であります。
 今日の記事は、「説教理解のために」にも、書きましたように、一見、際立ったことのない、地味な出来事が記されているに過ぎないかのような印象を持ちます。しかし、ここには、主のご復活ということの意味が深く隠されているのであります。本日の記事に沿って、復活の意味について、しばらくご一緒に考えてみましょう。
 まず、彼らが、「それらのことについて」話していると、主イエスがやって来られて彼らの真ん中に立ち、そして、お語りになるのであります。「平和があなたがたに」と。平和とは、単なる挨拶言葉にとどまらず、幸福とか、完全な調和、あるいは、今頃の言葉で言うと福祉といった深い意味があります。私たちが、神さまの恵みによって、調和が取れているようにというふうな意味がこめられている言葉であります。このときの弟子たちの大部分は、悲しみ、絶望に取り囲まれ、生きていく希望も失っていました。そこに、真ん中に立って、「平和があるように」と主イエスは言われるのであります。
 ところが、弟子たちは、おびえ、恐れて、自分たちは「霊」を見ているのだと思っていたのであります。死人の「霊」を、―「亡霊」と訳されていますが―、それを見ていると恐れるばかりでありました。主は、「なぜ、うろたえ、悩んでいるのか、何のために、あなた方の心に疑いが起こっているのか」と尋ねます。復活に出会った弟子たちはいつの場合にも決してすぐには信じれなかったことで聖書は一致しています。復活した主イエスは、それに対して言われます。「私の手や足を見なさい。死人の霊には、肉体も骨組みもないが、あなた方が見ているように私にはそれがある。私である。」そう明言されるのであります。そして、「私に触りなさい、そしてよく見なさい」とつい三日前の金曜日の十字架のときの手と足の釘跡の傷をお見せになるのであります。彼らは、喜びから、信じれなかったと書いてあります。信じがたい喜びを見出したのであります。しかし、なおも、信じられないでいる弟子たちに、さらに主は「何か食べ物を持っているか」と尋ね、彼らが食事の残りであったでしょうか、焼き魚の一切れを出すと、彼らの前で主はそれをむしゃむしゃとお食べになったのであります。
 私たちは、このような出来事を、弟子たちと同じように、理性や科学的知識や経験からは、このときの弟子たちと同じく容易に信じることはできません。しかし、聖書は、当時から伝統的にギリシャ人やローマ人、あるいは、現代でも考えがちな霊魂不滅説を取っているのではありません。ルカは、復活の主イエスが身体をもって弟子たちに現れたことを明記しているのであります。私たちの地上の生涯は、すべての人に終わりが来ます。病気で衰えたり、あるいは、不慮の事故に巻き込まれて死ぬ場合もありますし、脳梗塞で意識もおぼろになって、最後を迎えたり、精神的にみれば調和を失って、最後を迎える場合もあるでしょう。しかし、人間はすべて神の像にかたどられて創られた者であります。人間として生まれた以上、神さまは、主のご復活を信じる人に、それにふさわしいこの地上での命と生活と、そして、死後も主イエスにつながる永遠の命を与えられているのであります。その出来事のすばらしさに、弟子たちは、喜びのあまり、信じられないでいたのであります。
しかし、私たちの生活は、それで生活のすべてが喜びとなるわけではありません。主イエスに従う弟子として、同時にそれぞれの十字架をも、重荷をも、担っていくことが定められているのであります。主イエスのご復活の出来事を私たちは信じながら、この地上での生活を終えるときまで、精一杯の歩みをしていきたいものであります。祈ります。
天の父なる神さま。
 私たちは、あなたのみ子の十字架と復活の出来事を知らされています。その大きな喜びと、また、私たち一人ひとりに与えられている苦難をも、あなたに従いながら、忍耐し受け取っていく者とならせてください。新しい1週間をあなたへの信仰によって、おのずと生まれる良き実でもって満たしてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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2007/04/22(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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