津田沼教会 牧師のメッセージ
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「復活の主にまみえる」(ヨハネ20:1-18)
ヨハネ20:1~18、復活祭(白)、2005・03・27
使徒言行録10:39-43、コロサイの信徒への手紙3:1-4

ヨハネによる福音書20:1~18
 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。
 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


説教「復活の主にまみえる」(ヨハネ20:1-18)
 イースター、おめでとうございます。主日を入れないで、40日間の四旬節、受難節が昨日で終わり、喜びの復活祭の朝を迎えました。長かった寒さもようやく和らいで、本日は復活祭を祝うにふさわしい天候でもあります。今朝、私たちに与えられました福音は、ヨハネ福音書20章の1節から18節までであります。これは、前半の20章1節から10節までと、後半の11節から18節の二つの出来事に分けられます。本日、復活祭の日に起こったこれらの出来事の意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 まず、最初の出来事について、思いをめぐらしてみましょう。安息日どもからの第一日目、すなわち、週の初めの日、日曜日の朝ごく早く、まだ暗闇のときに、マグダラのマリアは、墓に行きます。ところが、岩の墓の入り口をふさいでいた大きな石は、既に取り除かれているのを見るのであります。マリアは、大急ぎでかけだし、そして、ペトロと主の愛した弟子のところに向かって行き、言うのであります。「彼らが主を取り去りました。わたしたちは、主がどこに置かれたのか分かりません。」ペトロと、主が愛されたそのもう一人の弟子は、隠れ家から出て行き、墓へ向かってやって来つつありました。二人は、同時に走り出したのですが、もうひとりの弟子のほうが、追い抜いて、先に墓に着きます。しかし、彼は中をかがんで、のぞいて見ただけでした。やがて、着いたペトロは、中に入り、遺体をくるんでいた亜麻布がおいてあるのと、顔の覆いが離れたところにたたんであるのを見ます。やがて、もう一人の弟子も、「入ってきて、見ました、そして、この弟子は信じた」のであります。すなわち、この弟子はこのとき、主が復活なさったことを、洞察してさとったのであります。聖書は、しかし、「なぜならば、主が必ず死人の中から、復活することになっているとの聖書の言葉を彼らはまだ知らなかったからである」と少し矛盾した言葉を記しています。そして、彼らは、再び仲間たちのところへと帰って行ったのであります。
 さて、後半は、マリアが、二人のあとを追ってやって来ていたものか、墓に来ていて、泣きながら、中をふと屈んで覗き込みました。彼女は自分の先生の遺体を人々が取り去ったと思い込み、しかしなんとか、取り戻して丁重に香油をぬったりして葬ってあげたいと思って泣いていたのであります。ところが、中を覗き込むと、その墓の中に、足もとと顔の部分に位置していたとと思われる場所に、天使がふたり、白くまばゆい衣を着て座っているのを見るのです。彼らは言いました。「婦人よ、なぜ泣いているのか?」マリアは、「人々が私の主を取り去りました。そしてどこにおいたのか、私にはわかりません。」と答えます。そして、今度は後ろを振り向くと、そこにイエスが見えましたが、マリアには、イエスであることがわかりませんでした。そして、彼女は園の園丁だと思っていると、イエスはいわれます。「なぜ泣いているのか?誰を探しているのか?」
彼女は言いました。「ご主人、あなたが、ここに納められた主を運んだのなら、私に教えてください。わたしが、納めますから。」すると、主は言われました。「マリアよ。」これは、もとの文では、マリアムという言葉で記されています。そして、そのとき、マリアは気づいて、「ラボニ」すなわち「先生」とヘブライ語で語ります。マリアは、主にすがりつこうとしたのでしょう。主は言われます。「私に触れるのはよしなさい。私はまだ父のもとに上ってはいないのだから。私の兄弟たちのところに行って告げなさい。私は、私の父であなたがたの父でもある方、わたしの神であなたがたの神でもある方のもとへと上っていくと。」マグダラのマリアは出て行って、「私は主を見ました」と言い、先ほどのそれらの言葉を彼が彼女に語ったことを伝えたというのであります。
 どうして、主は、マリアに、「わたしにすがりつくのはよしなさい。わたしは、まだ、父のもとに上ってはいないのだから」と言ったのでしょうか。それは、主は、まだ、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神、またあなたがたの神のもとに上る」という大事な務めを終えてはいないからとも考えられます。主は、弟子たちと別れるにあたっての告別説教の箇所で、「私を信じなさい、そしてまた、わたしの父を信じなさい。私は、あなたがたのために住む場所を用意しに行く」と言われました。その働きを、主はなさらなければならないので、その復活したからだに、触れることはよしなさいと、言われたのでありましょう。ヨハネ福音書の記者にとって、受難も十字架も、主のご復活も、そして、天にあげられ、父のもとから来た者として父のもとに帰ることも、栄光でありました。それらは、ばらばらに分けられるものではなく、密接不可分なことでありました。
 復活の出来事は、福音書記者ヨハネにとっては、天の父のもとから遣わされること、十字架の死、十字架にあげられること、そして、三日目のご復活、そして、天の父のもとにあげられることと、切り離すことのできない大事な、一体のこととして考えられるべきことであります。
 ペトロは、墓の中に入り、亜麻布が置かれているのと、顔の覆いがたたんであるのを、つぶさにみてとりました。そして、もう一人の主が愛した弟子は、あとから入って、その意味を洞察して理解することができました、そして、主の復活を信じたのであります。
 私たちにとって、理想的な弟子のありようが、この「主の愛された弟子」によって表現されています。主イエスのご復活は、主を信じる弟子たちにだけ与えられたのであり、彼らだけが理解できたのであり、主は、その残された弟子たちのもとにだけ復活の姿を現されたのであります。
 そして、主のご復活の意味は、主が私たちのために、父のもとに行き、住む場所を用意してくださることであります。そしてそれはまた、私たちが、主イエスを信じ、私たちの神を信じるようになるためであります。そのために、「父のもとに上っていくことを、わたしの兄弟たちに知らせるように」と主は言われたのであります。
 このときの出来事から2000年近くたった今も、私たちは本日のみ言葉を通してご復活の主にまみえることがゆるされています。そのことを思い起こしつつ、復活祭を共々に祝いたいと思います。
 父なる神さま。あなたは、弱い私たちを憐れみ、み子を地上の私たちのもとにお遣わしになり、受難と十字架の死と復活、そして、天にあげられ、あなたのもとに、み子が帰られることを通して、私たちの罪を赦し、救いを完成してくださいました。そして、わたしたちが、いかなる困難や障害にもひるむことなく、生きる力を与えてくださいました。この復活の主と今もなお、聖書を通して、あいまみえることができますことを感謝します。どうぞ、あなたがこれからも私たちの生涯を最後まで導いてください。キリストのみ名によって。アーメン。
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2005/03/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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