津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスによって心が燃やされる」(ルカ24:13~35)
ルカ24:13-35、2007・04・15、復活後第1主日
使徒言行録5:12-32、黙示録1:4-18

ルカによる福音書24:13~35
 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたというのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。



 説教「主イエスによって心が燃やされる」(ルカ24:13~35)
 復活後第1主日を迎えました。先週は復活祭で、本日の個所の前、ルカ24:1-12が与えられました。次週は、本日の個所の続き、ルカ24:36-43が与えられています。ルカは同じその著書である使徒言行録においては、復活の主が、40日間に渡って弟子たちに現れ、教えられ、また、食事をともにしたことが記されています。
 ルカ福音書では、しかし、復活させられた日、週の初めの日の一日の間に、先週の早朝に起きた空の墓の出来事があり、本日のエマオへの道で主イエスが現れたことが記され、次週の個所では、11人と弟子たちのところに現れ、そして、最後に、オリーブ山のあたりまで弟子たちを伴い、天に上げられる出来事までが記されています。
 他の福音書とは異なるこれらの復活顕現のいずれが正しいのだろうかと素朴な疑問も起こりますが、主のご復活がそれぞれの弟子たちにいろいろなかたちで、知らされたということを聖書のとおりそのまま、信じてよいのではないかと思います。聖書の記事というものは、いろいろな展開がありますが、私たちを治める唯一の神が創世記の始めから、ヨハネの黙示録の終りに至るまで一貫して記されているものと考えていいのではないでしょうか。
 本日の出来事を、もう一度思い起こしてみましょう。先週の出来事のあった同じ日に、すなわち、マグダラのマリアたちが、墓に行き、なかはからで、二人の天使に会い、主のご復活を告げられ、それを知らされた弟子のうちのシモンもそれを確認した同じ日のことであります。恐らく弟子たちは、怯えながら、隠れ家のような場所にいたと思われますが、彼らのうちの二人が、エマオという11キロほど、エルサレムから離れた村へと歩いて行きました。彼らは、会話しながら、また、論じ合いながら進んでいました。
 すると、いつしか、主イエスが後ろから追いついて、一緒に歩き出しました。主は、「あなたがたは、何について、話し合い、やりとりしているのか」と尋ねます。彼らは、憂鬱そうな顔をして立ち止まりました。そして、クレオパという一人のほうが、言います。「ここ数日に、エルサレムで起こった出来事をあなただけは、ご存じなかったのですか。」「どんなことか」と主イエスが聞くと、彼は答えます。「ナザレのイエスのことです。彼は神の前に、また民の前に、行いにも言葉にも、力のある預言者の人となり、私たちは、彼こそ、イスラエルを贖ってくださる方だと期待していました。ところが、私たちの民の指導者たち、祭司長たちやサンヘドリンの議員たちが彼を死刑に定め、十字架につけて殺してしまったのです。それからもう三日目になりますが、驚いたことには、私たちの内のある女たちが、墓に行って、中がからになっているのを見出し、二人の天使たちが、彼は復活なさり、ここにはおられない、彼は生きておられると告げられたというのです。仲間のうちのある者も確かめに行きましたが、女たちの言った通りでした。」すると、主イエスは言われました。「ああ、愚かな者たちよ。そして、預言者たちが語ったすべてのことを信じるのに鈍い心の者たちよ。メシアは必ず多くの苦しみを受け、それから栄光に入るはずではなかったのか。」そう言われて、モーセから始め、また、預言者たちから始めて、聖書を説き証しなさいました。しかし、彼らの目は妨げられていて、それを語っておられるのが主であることには気づきませんでした。
 こうして、エマオに近づくと、主はなおも先に進まれるようでした。彼らは、無理を言って、もう夕方に向かっていますし、日も傾きましたので、家に泊まってくださいというと、主は一緒に中へ入ってくださいました。それから、夕食のときとなり、主イエスが食事の席につき、パンを取り、感謝し・神をほめたたえ、パンを裂かれ、彼ら二人に渡しておられるときに、彼らの目が開かれ、主イエスであることを認識しましたが、主は彼らから見えなくなりました。
 二人は、主イエスが道で聖書を説き明かししてくださったときに、私たちの心は内において燃やされていたではないか」と語り合い、その時そのまま、立ち上がり、引き返して、エルサレムに戻ってみると、弟子たちが集まっていて、主は本当に復活なさった、そしてシモンに現れたと言っていました。それで、二人も、道において起こった出来事やパンを裂かれたときに、主イエスだとわかった次第を説明していたと本日の記事は終わっています。
 私たちは、地上の生涯はだれもが、いつかは死を迎え、絶たれるときがきます。しかし、死ですべてが終りになるのではありません。それが、復活の出来事の意味であります。死は聖書でも、人間にとって最大の敵であるかのように記されていますが、主の十字架と、そこにいたる主メシアの苦しみを通して、さらにその先にある栄光に主が入れられるという出来事を通して、そのような死が克服されたのであります。主のご復活のよき知らせを信じて、私たちもそれによって安心して生涯を主にゆだねて歩んで生きましょう。アーメン。
 

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2007/04/15(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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