津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主ご復活の知らせ」(ルカ24:1~12)
ルカ24:1-12、2007・04・08、復活祭(典礼色ー白―)
出エジプト記15:1-11、コリントの信徒への手紙一15:21-28

ルカによる福音書24:1~12
 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓ヘ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。


説教「主ご復活の知らせ」(ルカ24:1~12)
 
本日は今からおよそ2000年ほども前に、主ご復活の知らせが、怯え、隠れていた弟子たちのもとに届いた朝であります。長かった主の十字架をおぼえる受難節、四旬節の季節も終わりました。主の十字架上での死からの三日目の出来事について、ルカ福音書24章1~12を、ご一緒にたどりながら、このことの意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
ところで、四つの各福音書の告げる主ご復活の記事は、それぞれが独特で、はたして、主のご復活は実のところ、どういうものだったのだろうか、と少し戸惑いを覚えます。しかし、それぞれの福音書記者が、その伝え聞いたところを、それぞれの視点と、立場から記しているのだと考えれば、一見食い違いがあるようにみえても、本質的なところでは、矛盾しているとまでいえるものはないのであります。
逆にもし、主イエスのご復活が、事実無根のことであったならば、記者たちは、合理的に少しも食い違うようなところは書き残さなかったでありましょう。
しかし、主イエスは、私たちが使徒信条で唱えているように、確かに、「ポンティオ・ピラトのもとに十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右の座に座したもう」のであります。
私たちは、死を考えるときそれですべてが終わりになってしまうように感じます。また、死だけでなく、多くの困難や病気などにぶつかると、信仰の力をもってしても、どうにもならないと率直に感じさせられるときがあります。
しかし、どのような苦しみも闇も地獄と思えるものも、主イエスの十字架の死と復活によって、2000年ほどまえのこの朝の十字架の死と今朝の主のご復活によって、根本的には解決されているのであります。
さて、女たちは、彼らが用意した香料をもたらすために、週の初めの日、すなわち、「安息日からの第一日目の夜明けの深みに」ともとの言葉では書かれていますが、主の葬られた新しい墓へとやって来たのであります。そして、女たちがどうしようかと心配していたであろう墓の入り口の大きな石は既に脇へところばされてあり、そのなかに入ると、主イエスのからだを、彼女たちは見出さなかったのであります。
そして、起こったことには彼女たちが、途方にくれていると、二人の人が光り輝く衣を着て、彼女たちのそばに現れたのであります。彼女らがおびえて、顔を地面につけていると、二人は言います。
「なぜ、生きておられる方を、死人たちとともにして探しているのか。その方はここにおられず、復活なさったのだ。生前にあの方が言われたことを思い出しなさい。すなわち、あの方は人の子は、罪深い人間どもの手に渡され、十字架にかけられ、三日後に復活することになっていると言われていたではないか」と。
その時彼女らをそれらの主の言葉どもを思い出しました。そして、引き返して、11人とすべての弟子たちに伝えました。しかし、すべてのその弟子たちには、彼女らのいうことが病人が発するうわごとであるかのように思えて、ずっと彼らは信じないでいたのであります。
復活の出来事にあたって、弟子たちは疑った、信じないでいたということが、どの福音書にも繰り返し繰り返し書かれています。主のご復活とはそういうすぐには信じられない、私たちの理性を超えた出来事なのです。聖書の神さま、そして、主イエスという神は、急には分からない超越的な神さまなのであります。
さて、本日、主のご復活の出来事に最初に出会ったその女性たちとは、マグダラのマリア、ヤコブの母のマリアとヨハナでありました。ヨハナは、ヘロデの大臣クーザの妻であるヨハナであったかもしれません。復活の記事の中では、ルカでここでだけ出てきますから、このヨハナが、ルカの記事には大きな影響を与えているのかもしれません。
そして、最後に、付け足しであるかのように、ペトロの行動が記されています。ペトロは、走っていき、墓の中をかがんで覗き見ると、お墓の中にただ麻布だけがあるのを見出し、不思議に思いながら家へと帰っていったのであります。
私たちは、本日この復活の喜びを知らせられる出来事を知らされています。しかし、最初に言いましたように、心からは喜べないような、現実の弱い、また多くの課題を背負った自分もおのおの知っていると思います。しかし、み子の復活を起さしめた父なる神が、私たちがみもとに召されるときには、私たちの問題もすべてを解決してくださることを信じて、新しい一年を歩みだしたいものであります。アーメン。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。


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2007/04/08(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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