津田沼教会 牧師のメッセージ
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「十字架に向かわれる王」(ルカ19:28~48)
ルカ19:28-48、2007・04・01、枝の主日
ゼカリヤ書9:9-10、フィリピの信徒への手紙2:6-11

ルカによる福音書19:28~48
 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
 「主の名によって来られる方、王に、
  祝福があるように。
  天には平和、
  いと高きところには栄光。」
 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・・。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」

 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。
 『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話しに聞き入っていたからである。

説教「十字架に向かわれる王」(ルカ19:28~48)
 
本日からいよいよ受難週にはいります。長かった四旬節も残り1週間となりました。聖灰水曜日から、数えて主日をのぞき、40日間ですから、50日近くを四旬節として過ごしたことになります。四旬節の最後の日曜日は、別に受難主日としての日課もありますが、私たちルーテル教会では伝統的に枝の主日として、エルサレム入城の記事が、教会暦の始まる待降節第1主日と同じ箇所が読まれてきたのであります。今年は、ルカを主たる福音とするC年ですが、今回は、アドベントのときよりもはるかに長いルカ19:28-48という記事が与えられているのであります。そして、終末のときにお出でになられるお方としてではなくて、本日は受難と十字架に向かわれる王としての主イエスが主題であります。
 ルカに特徴的な部分を考えながら、今日の出来事をご一緒にもう一度思い起こし、考えてみたいと思います。主は、ムナのたとえ話語られた後、前を先頭に立ってエルサレムへと上って行かれます。そして、ベトファゲとベタニアの村に近づかれると、二人の弟子を、おそらく、ペトロとヨハネでしょうか、こう言われながら、送り出すのであります。向こうの村へ進んで行きなさい、そうすると、あなたがたは、まだ誰も乗せたことのない子ろばがつないであるのを見出すであろう。それをあなた方は引いて連れてきなさい。もし誰かが、お前たちはなぜほどいているのかと聞かれたら、「主がお入用なのです」すなわち、「それの主が必要を持っておられる」と言いなさいと。
まだ、誰も乗ったことのない子ろばは、神聖なものであり、王が用いるのにふさわしいものであります。メシアであるキリストがお用いになるのにふさわしいのであります。
 それで、彼らが行ってみると、彼が言われたとおりに、彼らは見出すのであります。それで、つないである子ろばをほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、それをほどいたりするのか」と聞きます。彼らは、「その主が必要を持っておられる」と答えて、それを主イエスの下へと引いてきて、自分たちの上着をそれの上に投げかけ、主をそれにお乗せしたのであります。そして、前を行くものたちは、自分の服を道に敷いて、広げました。大勢の、たぶんガリラヤからの過ぎ越し祭への巡礼の主イエスを慕う弟子たちが、彼らが見た力ある、主のなさったみ業のゆえに、エリコでのバルトロマイの目を開けたりした出来事のゆえに、神を賛美し、ほめたたえながら歌うのであります。「主の名においてこられる方、王に祝福があるように、天には平和、いと高きところには、栄光があるように」と。それは、主がオリーブ畑と呼ばれる山の下り坂の近くにさしかかったときのことでした。    
ファリサイ派のある者たちは、群衆の中から、「先生、彼らを叱ってください」と言います。ユダヤの指導者層にとっては、主イエスは、メシアであることは理解できず、ただの先生に過ぎなかったのであります。主は、もし彼らが黙れば、石が叫ぶであろうと当時のおそらく格言になっていた表現を用いて毅然と答えられます。
 主はもはや、ご自分がメシアであることを隠されず、そのことを公然と人々に表わされるのであります。自分の前に迫り来る十字架の死を知りながら、主はエルサレムへと勝利の行進をなさるのであります。
そして、エルサレムの都が見えてくると、泣きながら言われます。お前が、祝福の訪れの時を知っていたなら・・・と。そして、お前を敵どもが取り囲み、堡塁、とりでを築き、石の上にひとつの石も残らなくするだろうと、恐らく紀元70年に起こったエルサレム包囲と陥落の出来事を予知して言われていたのであります。
そして、だしぬけに、次には、主は、神殿の境内に入り、宮清めをなさっておられるのであります。私の家は祈りの家でなければならない。それなのに、あなたがたは、神殿を強盗の隠れ家にしたと言って、売っているものたちを追い出されるのであります。
これは、ヨハネの福音書の始めに出てくるものとは違った二度目の、そして、公の宣教の最後になされた宮清めであったと考えられます。エルサレムの指導者層は、この商人たちによって大きな利得を得ていたでありましょうし、最初の宮清めのときよりも、その商売の状態はさらにひどくなっていたであろうとも考えられます。
 それを見て、祭司長、律法学者たち、そして民衆の指導者たちは、イエスを滅ぼそうとしますが、その機会をなお見出せないでいました。民衆がみな、彼に聞くことに熱中していたからであります。主は、公然と受難を前にして語られ、民衆の心を奪うほどであったのであります。十字架に向かって勝利の王として、主はまっすぐに、十字架に向かってお進みになったのであります。その主の十字架の死によって私たちは、罪をあがなわれるのであります。そのことをおぼえる受難週の一日一日を過ごしましょう。アーメン。
 
 望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。

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2007/04/01(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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