津田沼教会 牧師のメッセージ
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「立ち帰る者を喜ぶ神」(ルカ15:11~32)
ルカ15:11-32、2007・03・18、四旬節第4主日(典礼色ー紫―)
イザヤ書12:1-6、コリントの信徒への手紙一5:1-8

ルカによる福音書15:11~32
 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べることにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴をはじめた。
 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」



説教「立ち帰る者を喜ぶ神」(ルカ15:11~32)
 四旬節第4主日に与えられている福音は、ルカ福音書15:11-32であります。いわゆる放蕩息子の譬え話として有名な物語であります。
ある人に二人の息子があった。そして、弟のほうは、自分に与えられることになっている財産を分けてくれるように父に頼んだのであります。その当時、父の生前にこのように財産分与をする慣習があったかどうかははっきりしていませんが、この父は、二人の息子に、おそらく、兄に三分の二、弟に三分の一を分けてやったのであります。弟は、多くの日を重ねないうちに、それを集めて、金に換えて、遠くの地方に去ったのであります。そして、不身持に暮らしてその財産を撒き散らしたのであります。そしてちょうどそのときに強力な飢饉がおこり、彼は食するにも事欠き始めたのであります。そして、彼は進んでいき、ある町の人に雇ってもらい、彼は豚を飼わせるために畑に送り、この弟は、豚が食べるイナゴマメの鞘からでも満腹したいと思ったが、誰も彼にそうしてくれようとはしなかったのであります。
彼はその時、我に返って、言うのであります。私の父の家では、雇い人たちがパンを十分に得ている。私も父のもとへ帰って言おう。「お父さん、私はあなたに対しても、天に対しても、すなわち、神に対しても罪を犯しました。私はあなたの息子と呼ばれるにはもはやふさわしくありません。あなたの雇い人の一人のようにしてください」と。そして彼はすぐに立ち上がって進んでいったのであります。ところが、彼の父は、まだ遠く離れていたのに、彼を見出し、おなかがうずくような思いに駆られて、走り出し、彼の首を抱いて、接吻し、連れて帰って、家の奴隷たちに言うのであります。この子に、最上の長い服を着せ、手には指輪、王様が印章のついたものをもっているそのようなものを入れてやり、履物を足には履かせてやりなさい。そして、超えた子牛を連れてきて屠りなさい。「弟は、お父さん私はあなたに対しても、天に対しても罪を犯しました。もはやあなたの息子と呼ばれる資格はありません」と語りましたが、父はその先を言わせず、雇い人以上の受け入れ方をして、祝ったのであります。
私たちの天の父は、そして主イエスご自身も、このように、私たちが心から悔い改めて、みもとに立ち返るのを喜ばれるのであります。私もこの弟のような体験をして、洗礼を受けました。人生のどん底に陥ったとき、主イエスが私のもとに来なさいと優しく立っておられたのであります。いろいろな価値観に囲まれていたとき、その体験を通して、主イエスしかないと気づかされたのでありました。
 さて、それに対して、兄は、畑に出ていて仕事をし、ようやくそれを終えて、戻ってきたのでありますが、その音楽と踊りのざわめきを耳にして何事かと思い、僕を呼び出して聴くのであります。僕は、「あなたの弟さんが無事に戻ってきたと言うので、子牛をほふり、祝宴を始めているのです」と答えます。兄は怒って入ろうとはせず父が家から出てきてなだめようとしますが、受け入れません。そして、自分はあなたの命令を一度も破ったことはなく、しかし、一度だって、友達と宴会をするために子ヤギさえ、あなたは与えてくれたことはありませんでしたと言います。父は、「子よ、私のものはみなあなたのものだ。しかし、あなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに、見出された。祝い喜ぶのは当然ではないか」兄にも優しく答えたのであります。父の愛、そして、主イエスの愛は、すべての人に注がれています。
父は、弟にも、兄にも同じように愛に満ち、そして、罪を犯しても悔い改めた者には同じように恵み深いのです。この後、兄がどうなり、弟がどうなったかは、記されていません。しかし、すべての人に赦しを与え、愛しておられるのが天の父であります。
 本日の父において表されている、罪の赦しを与える神と主イエスにつながって、一生を送っていきたいものであります。
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。







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2007/03/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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