津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスの身を切る愛」(ルカ13:1~9)内海望牧師
ルカ13:1-9、2007・03・11、四旬節第3主日(典礼色―紫―)
出エジプト記3:1-15、コリントの信徒への手紙一10:1-13

ルカによる福音書13:1~9
 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人がそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」



   説教「主イエスの切実な愛」(ルカ13:1~9)内海望牧師

 世情は騒然としていました。ローマの長官ピラトの兵士がガリラヤの巡礼者を殺し、その血を犠牲の血に混ぜたというおぞましい出来事が起こりました。また、シロアムの町では、塔が倒れて18人もの人々の命が奪われました。今日、私たちがテレビや新聞で見るような心を暗くする出来事は絶えたことがないのです。言い換えれば、人間の世界には、いつも罪と悲しみが満ち溢れているのです。
 私たちは、今日の日課におけるイエスさまの口調の激しさに驚かされます。「決してそうではない。あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と二回も繰り返されるのです。私たちは、ここで、イエスさまの息づかいを感じ取ります。イエスさまは激しく怒っていらっしゃるのです。
 イエスさまの口調で分かることは、ピラトの剣が閃いた時、この事件を報告に来た人々が、「あの罪深いガリラヤ人ならば、こんな目にあっても当然だ」という態度を取ったに違いありません。そもそもユダヤ人は、「異邦人(神を知らない)のガリラヤ!」とガリラヤ人を軽蔑していました(マタイ4:15)。それで、この事件を聞き、ここぞと、「天罰だ」とわめき散らすのです。シロアムの事故に関しても同じです。シロアムはエルサレムの南北の丘にある町ですが、エルサレムの中心、つまり神殿の傍に住んでいる者たちから見れば、シロアムの人々は、自分たちより、神さまから遠く離れている者であったのです。そこで、この惨劇を聞いた時、「彼らの罪の結果だ」と言っているのです。
 そのような人々に対して、イエスさまは、厳しく「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とおっしゃるのです。「人を蔑む前に、先ず悔い改めなさい」と。
 私たちは、このようなイエスさまと人々の会話を、現代の私たちとは無縁な出来事と考えてはいけません。私たちも同じです。私たちは、いつも人々の間違いを探して、自分が神さまであるかのように他者を蔑み、裁くのです。「あんな人間にならなくて良かった」と他人より立派な自分を見て暗い喜びにひたるのです。アダム以来の原罪!
 イエスさまの「皆同じように滅びる」という言葉に注目してください。そこに例外はありません。私たちは、神さまの前では、一人の例外もなく悔い改めを必要としている罪人だとおっしゃるのです。神さまの裁きの下に滅ぼされるべき者なのです。このイエスさまのみ言葉は、私に向けられた言葉なのです。私たちの心を神様の前で深く見つめなおしましょう。そこには、どのような心が見えてくるでしょうか。思い上がった心を打ち砕かれた、悔い改めを必要とする姿ではないでしょうか。ルターはこのことをとことん知った人物でした。思いと言葉と行いによって、私たちは罪を犯す存在です。聖書の読み方も、私をどこに置くのかが問題です。
 ルターは修道士として、課せられた規則を忠実に守りました。同僚の修道士も驚くほどの熱心さを持って。ところが、彼自身は、その時の自分を、次のように描いています。「私は、修道士として定められた規則に従って生きようと非常な努力をし、苦痛を忍んだ。しかし、依然として、私の良心は安心を得ることができなかった。『まだ十分に懺悔していない』と苦しむのでした。」「このような時が続いたならば、私は全く破滅し、その骨は灰に帰したであろう」と。ルターにとって、「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」というイエスさまのみ言葉は、まさに自分に向けられた刃であったのです。私たちは、この神さまの厳しさを忘れてはなりません。
 その上で、イエスさまは6節以下のたとえを話し始められるのです。
 ここで園丁が、「ご主人様、今年もこのままにしておいてください」と嘆願している姿に目を向けたいと思います。何とかいちじくの木を守ろうとする園丁の姿に感動します。
 イエスさまは、「自分は失われた者、罪人を救うために来たのだ」と繰り返しおっしゃいます。「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである(19:10)と自分の使命を明らかにされ、事実、十字架上の苦しい息の下で、「父よ、彼らをお赦しください」と、最後まで自分を殺害する罪人のために祈り続けてくださった方なのです。イエスさまは罪人の敵ではない。ご自分の命を犠牲にしても、悔い改めず、滅びに陥ろうとする私たち人間を救おうとするイエスさまの姿にイエスさまの切実な愛を見ることができます。イエスさまの厳しさもまた、罪に沈んで行く私たち罪人を救おうとされる切実な愛であることが明らかになります。イエスさまは今もなお、私たち一人ひとりのために十字架上で祈ってくださっているのです。
 今日の説教題を、最初は「神さまの忍耐の時」としました。しかし、「今年もこのままに」という園丁のことばに、「今は恵みの時である」という喜びを見出しました。そして、「今」という時が、イエスさまの切実な、文字通り「身を切るような愛」に支えられている今であることに気づきました。
 四旬節の季節です。心を低くしてイエスさまの十字架の下に立ち、悔い改めましょう。「謙遜」という言葉では弱すぎます。むしろ、私たちはイエスさまの十字架上の祈り、その切実な愛、「ご主人様、今年もこのままにしておいてください」という祈りによって、古い、思い上がった私が打ち砕かれ、死に、新しい復活の命に生きる時なのです。「死んで、蘇る喜び」を共に望みつつ、イースターの夜明けを待ちましょう。
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2007/03/11(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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