FC2ブログ
津田沼教会 牧師のメッセージ
「靴の祈り」(マタイ21:1-11)
マタイ21:1-11、2005・03・20、枝の主日
ゼカリヤ書9:9-10、フィリピの信徒への手紙2:6-11

マタイによる福音書
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子に使いを出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
 主の名によって来られる方に、祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。


説教「靴の祈り」(マタイ21:1~11)渡辺純幸主任牧師
 八木重吉の詩に「基督が解決しておいてくれたのです/ ただ彼の中へはいればいい/彼につられてゆけばよい」というのがあります。八木の闘病をとおして神への揺るぎない信頼を詩っています。本日の聖書は、イエスがエルサレムに入場される場面です。八木の詩のように、イエスがすべてを解決されるために入場されるのでしょう。
 イエスとその一行がエルサレムの目と鼻の先ベトファゲに来たとき、弟子二人に、「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばがいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる」と言われました。
 そこで弟子たちは行って、ろばと子ろばをイエスのところに引いて来てました。そのろばに乗ったイエスを、群衆は王を迎えるように、おのおの服や木の枝を道に敷き、「ダビデの子にホサナ。主のみ名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と口々に叫びながら、イエスの後に従ってエルサレムに入場したのでした。これは、ゼカリア書9章9節の「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ。歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」という旧約の預言の実現でした。
 ただろばに乗って入場する姿は人々の期待していた王様とは少々異なっていました。ろばは、英語でドンキー、あるいはアスと言いますが、それは、「ばか」とか「強情」の意味を持っています。またエレミヤ書にも、「ろばがうめられるように、彼は葬られた」とあり、あまり良い使われ方はしておりません。
 これは、馬と比較してのことなのかも知れません。馬と比べて戦争に役に立たないという姿でありましょう。私たちは、もしイエスが王であるのなら、王らしく、馬に乗り凱旋するごとく、それ相応の姿でエルサレム入場というようにすればよいと思うのです。
 しかし、戦闘に対する馬でなくろばでした。
ご一緒にイエスのエルサレム入場の意味を考えてみましょう。
 アメリカ先住民スー族の祈りに、「大いなる霊よ、私が隣人の靴で1マイル歩かないうちは、その者を批判する事がないように導きたまえ」というのがあるそうです。この祈りを基に「靴の祈り」というのがあります。これは「靴のミサ」と呼ばれるカトリックの黙想会で行われているもので、隣の人と右足の靴を交換します。他人の靴を履くということは、自分を傷つけた人の中へ熱意をもって入るということの象徴です。
 そして、この祈りを体現した人にギリオンという方がいます。1944年に、アドルフ・ヒトラーの兵士がギリオンの家族全員を殺害しました。彼は復讐に燃え、ヒトラーの暗殺計画に三度も関与し、35年以上経っても、ギリオンは復讐に燃えていました。
 そんな彼は、ある時「靴のミサ」に参加し、隣の人と右靴を交換しました。その靴があのヒトラーの履いていたのに似ていたので驚きました。
 参加者たちは、各自が今交換した人の靴で歩きながら、その人の立場になってみるように促されました。ギリオンはヒトラー風のブーツで歩きながら、締め付けられるような窮屈さを感じ、どこかヒトラーの硬直した世界が見えてきました。
 ギリオンは憐れみを感じました。そのうち彼はヒトラーをどうしても許せない以外はすべて理解できる気になってきました。ところが、この許すことのできない心はどこかで見たような気がしました。それは35年間、ヒトラーを許すことのできなかった自分の心によく似ていることに気づきました。
 ギリオンは更に祈り続けました。そして左の自分の靴で歩くとき、許すことのできない心をもつ自分をそのまま愛してくださる神さまに気づきました。人は与えられたものしか与えることができないので、彼はまず自分の靴で歩き、自分が必要とする愛を受けることにしました。
 必要なだけの愛情を十分得たなら、交換した靴で歩く力が自然と湧いて、その靴の持ち主に対して、いま自分が得た愛情を注ぐ事ができます。ミサの終わる頃には、ギリオンは自分の靴で十分に歩き、自分の頑なな心を癒す神の愛を存分に受けて、その癒しの愛をヒトラーにまで捧げられるほどになりました。このギリオンがした「靴の祈り」で誰かのために祈ることは、それはキリストのとりなしにも似ています。イエスはいつも私たちの靴で、私たちの立場になって歩んで下さっていることに気づきます。そして、その許しでもって私たちも人を許すことができるようになるのです。
 さて、イエスはエルサレムに近づいて、子ろばに乗って入場されました。聖書の流れに従ってまいりますと、次に待つのは十字架の死です。それを知りつつ、敢えてイエスはエルサレムに入場されたのです。ローマの圧制のもとに苦しみ、解放の日を待っていた群衆には、イエスがろばに乗って入場されるのも、王が馬に乗って入場している姿として見えたに違いありません。ただここで、私たちはこの一連の出来事を通して、イエスの入場が、あくまで一般のユダヤ人が期待する王とは異なるものであったということを心しておかねばならないようです。
 イエスのエルサレム入場は、イエスがろばと子ろばを引いてくるようにと言われたことを思い起こしても、預言されたとおりの姿で、一つひとつが神のご計画という必然性をもってなされていたということです。
 戦いに用いる馬でなく、平和のしるしのろばに乗って入場するという姿の中にメシアとしての役割があるのです。そこには、強い王ではなく、苦悩に満ちた、受難の王の姿があるのです。
 ろばに乗ったイエスは、エルサレム入場に際して、『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』と大勢の群衆の歓呼でもって迎えられました。しかし、どうでしょう。イエスがエルサレムに入られると、「都中の者が『いったい、これはどういう人だ』と言って騒いだ」とあります。どうしたことか、エルサレムの人々はあまりイエスを歓迎している様子ではありません。どうもエルサレムの高い城壁の内と外では大きな違いがあるようです。つまり、エルサレムの壁の中の信仰と壁の外の信仰とでもいうべきものがあるということです。
 イエスが今まで宣べ伝えたのは、この壁の外の人々とでも言えましょう。ガリラヤ湖畔のカファルナウムが中心でした。決してエルサレムではありませんでした。エルサレムという都に対してどちらかというと、名もない田舎で、しるしや癒し、奇跡をなして多くの人々と拘わりました。罪人と呼ばれた人々に声をかけ、彼らのそばにいて魂を生き返らせました。それは、あるがままの姿で、柔和で優しい姿でありました。
 けれどもそこに待ち受けるのは壁の内の疑い深い不信仰に満ちた人々であり、十字架の道でした。残念なことにこのイエスの入場なしには、私たちの救いはなかったのです。
 それは、靴の祈りにもありましたように、相手の靴の苦悩を自分のものとして受け入れる姿そのものです。イエスは私たち一人ひとりの苦しみや悲しみ、そして痛みをもって履いている靴を自分の靴として履いてくださるのです。
 エルサレムはその象徴であり、ろばに乗っての入場は、私たちの置かれている状況とその救いを明確に指し示して下さった姿でありましょう。
 自分を迎え入れてくれるのでなく、敵意と悪意にみちた場所に向かって入場されるイエスにとって、イエスの誕生のときからエルサレムの町は人々の救いを意味するもの以外の何ものでもありませんでした。
 素直に、「ダビデの子にホサナ」と言えたのは遠い昔のことで、今はエルサレムという城壁の中で、あんのんと、どうも、今やエルサレムは平和の基ではなくなってしまった姿が浮かんで来ます。しかしイエスは、この城壁を通り抜けて入場されたのです。
 これは、この神の都が真の平和の都として、平和の場所として回復されるためであると同時に、それはまさに、私たちの頑なな心の壁をも取り去って下さる救いのための入場なのです。
 イエスの十字架という代償なしには、その平和も素直な心も救いもありません。イエスのエルサレム入場は、イエスの誕生と同じ意味であり、私たちの救いの確かさでもあるのです。あの八木重吉の「基督が解決しておいてくれたのです/ ただ彼の中へはいればいい/
彼につられてゆけばいい」を思い起こし、今日、イエスは私たちのためにエルサレムに入場されました。私たちもイエスと共に、彼に従って、救いの門、エルサレムへ入場しようではありませんか。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

 

スポンサーサイト
2005/03/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)