津田沼教会 牧師のメッセージ
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主の道を備える
マタイ3:1-12、2004・12・05、待降節第2主日
イザヤ書11:1-10、ローマの信徒への手紙15:4-13、
マタイ福音書3:1-12
 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
  その道筋をまっすぐにせよ。』」
 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
 ヨハネは、ファリサイア派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

「主の道を備える」(マタイ3:1-12)(2004・12・05)
本日は待降節第2主日であります。私たちは、待降節第4主日には、クリスマスも兼ねて祝うわけであります。今から2000年ほども、前に来られ、ベツレヘムでお生まれになり、飼い葉おけに寝かされた主イエスのご降誕を祝うわけであります。しかし、待降節そのものは、再び来たりたもう終末の主イエスを覚える時であります。待降節と日本語では言われていますけれども、アドベントといいますのは、「到来する」という意味であります。その主が再びおいでになられると約束されている教会暦の一年のはじめの第2主日に与えられています福音のカ所は、マタイ福音書3章の1節から12節までであります。主イエスがメシアとしてこの世界に公生涯において、登場なさる前に、洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を授けるという場面が、マタイ福音書では、主イエスの誕生物語のあとに、30年ほどを隔てていきなり始まっているのであります。アドベント、わたしたちのもとに再び来られるメシアについて考えますこの時期に、ここのカ所が与えられている意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
本日のカ所は、「そのころ」、すなわち「それらの日々において」、洗礼者ヨハネが荒れ野においてこう語りつつ、宣べ伝えながら到来する、という言葉で始まっています。先ほどもいいましたように、主イエスの家族がガリラヤに引きこもってから、30年近くも空白があった後、洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を荒れ野において、そしてヨルダン川において、人々に授けるという出来事が起こるのであります。これは、旧約聖書のゼカリヤ書3:5において、言われていたように、メシアの来る前に、エリヤが再来するという預言が成就したのであります。本日の福音書は、続けてこう書かれています。これは、預言者イザヤを通してこう語られていた、その言われていた人である。すなわち、「荒れ野において叫ぶ者の声。あなたがたは主の道を備えよ。その道筋をまっすぐにせよ」と。これは、もともとは、バビロン捕囚において、イスラエルへの、また、エルサレムへの帰還を預言した言葉でありましたでしょう。しかし、マタイや他の福音書記者たちは、メシアの到来に備えるべき言葉として、ヨハネの言葉を通して、この言葉が主イエス・キリストにおいて実現したと信じたのであります。洗礼者ヨハネは、こう言って人々に呼びかけるのであります。「悔い改めよ、なぜなら、天の国は近づいているから。」この悔い改めるというのは、単なる心の持ち方の転換というよりも、誠実な悔い改めにふさわしい生活をすることであります。ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に皮の帯をし、その食物は、いなごと、野蜜であったと記されています。ヨハネは、ユダの丘の町で祭司ザカリヤの息子として生まれ、クムラン教団あるいは、エッセネ派のもとで、成長し、その中から、悔い改めの洗礼を授けるようになったのかもしれません。非常な人気が巻き起こったことを歴史家のヨセフスなどが記しています。しかし、マタイは、そして他の福音書記者たちも、洗礼者ヨハネは、主の道備えをする者、メシアの到来に備えての準備の洗礼を授けた者として、はっきりとその役割を区別しています。
エルサレム、全ユダヤ、ヨルダン川のすべての近隣から人々が、ヨハネから洗礼を受けるためにやってきていた、そして自分たちの罪を告白しながら彼によって洗礼を受けていたと、マタイは記します。ヨハネはファリサイ派やサドカイ派のものたちの大勢が、彼の洗礼を受けにやってきているのを見ていいます。「マムシの子らよ、迫っている神の怒りから逃れられると誰が教えたのか。それゆえ、悔い改めにふさわしい実を結べ。自分たちはアブラハムを父として持っていると自分たちの中で言おうとも考えるな。なぜなら、御神は、これらの石ころからでも、アブラハムに子たちをもうけることがおできになるからだ」。
ユダヤ人であり、宗教的リーダーであることがそのまま救いにつながるのではなく、神のご意志によって、救いに与かる者を神はご自由にお与えになるというのであります。
さらに、洗礼者ヨハネは、厳しい警告を彼らに向かって語ります。「斧が、木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は切り倒され、火に投げ込まれる。私の後に来られる方は、私よりも力があり、私はその方のサンダルをお脱がせするにも値しない。私は水で悔い改めへと洗礼を授けているが、その方は、聖霊と火において洗礼を授けられるであろう。そして、手に箕を持って、脱穀場をきれいにし、あるいは、脱穀したものをきれいにしとも読めますが、そして、穀物は蔵に収め、籾殻は、燃え尽きない火で焼き払われるであろう」と厳しい警告を発しているのであります。これは、よき実を結ぶものは、神の国に入れられ、そうでない者は、裁きのもとにおかれる。あるいは、前者は、永遠の命にあずかり、後者は、永遠の滅びに定められるという厳しい言葉であります。
ヨハネは、自分の授けている洗礼は、メシアに備えての準備的なものにすぎない、その方の授ける洗礼は、聖霊と火における洗礼である、と言いました。わたしたち教会に集っています方の多くは、そのメシアの洗礼、キリストの洗礼を受けているものであります。神の霊を注がれて、洗礼を受けているものでありますが、一方で火という裁きをも知らされている者であります。しかし、キリストが、わたしたちに仕える方として、そして、十字架についてくださる方としておいでになられて、わたしたちはそのような裁きから解き放たれているのであります。火は精錬し、ものを清める働きがあります。わたしたちも、一方で罪赦されて、神との正しい関係をキリストによって回復されているのでありますが、また一方では日ごとに言葉と行いと思いとによって多くの罪を犯し続ける弱い存在でもあります。そのような私たちのところに、主メシアの側からやってきてくださることに、思いをはせるのがアドベントのこの時であります。洗礼者ヨハネは、悔い改めの洗礼を授けながら、メシアによる聖霊と火との洗礼を示しながら、2000年後の今も、私たちが再び主が来られるのに備えて、主をお迎えするのにふさわしい、主キリストの十字架の死に応える誠実な悔い改めの生活、主の洗礼を受けた者にふさわしい生活を、この一年、このアドベントの時から始めていきたいものであります。一言祈ります。
天の父なる神さま。あなたが、あなたの方から、主キリストを私たちのところに再び来させてくださいます。私たちは、自分たちではどうすることもできない罪や弱さを身にまとっています。しかし、あなたがわたしたちが動くよりも前に、先にその苦しんでいる私たちのもとに来てくださいます。そのあなたに応答する生活をなさせてください。アーメン。
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