津田沼教会 牧師のメッセージ
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「十字架と心からの願い」(ルカ
ルカ18:31-43、2007・03・04、四旬節第2主日(典礼色ー紫―)
エレミヤ書26:7-19、フィリピの信徒への手紙3:17-4:1

ルカによる福音書18:31-~43
 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。

 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆はこぞって神を賛美した。




説教「十字架と心からの願い」(ルカ18:31~43)

本日は、四旬節に入って2回目の日曜日です。今年の教会暦では2月21日(水)から、4月7日(土)までの日曜日を除いて計算する40日間が、主イエスの十字架への道行きを覚えて、特に慎み深く生活すべき四旬節・受難節に当たります。この時にあたって、本日与えられていますのは、ルカ福音書18:31-43であります。
なぜ、この個所が、受難節にふさわしいのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。本日の個所は、新共同訳聖書ではっきりと分けられていますように、前半の18:31-34の最後の受難予告と、後半のおそらくバルテマイという盲人の目が見えるようになるという癒しの奇跡の出来事から成っています。その内容について、もう一度、思い起こしてみましょう。
主イエスは、12人を呼び寄せて、言われます。直訳しますと「見よ、私たちはエルサレムへと上っていく。そして、人の子について、預言者たちを通して書かれているすべてのことどもは、達成されるであろう。なぜならば、彼は異邦人に渡され、あざけられ、虐待され、つばきをはきかけられ、彼らは鞭打った後、彼の命を奪い、そして三日目に彼は起き上がるであろうからである」、と言われたのであります。
前段の記事も、後段の記事も、マルコがもとになっていますが、ルカは最後のこの予告で「異邦人である人々によって苦しむ人の子」を明らかにしています。しかし、このとき、弟子たちは、「これらのことについて何も洞察を得ることができず、この言葉、あるいはこの出来事は彼らから隠されており、彼らは理解できないでいた」のであります。彼らは、この後、復活の主御自身によって、目と心を開かれ、また、復活の主による食事を通して、ようやく救い主、メシアが旧約聖書で預言されていた苦しみと死をへねばならないメシアであることを、上からの啓示を通して知らされるのであります。
さて、それに対して後半の物語が始まります。「ところで、成ったことには、彼がエリコに近づいたとき、ある盲人が道の脇で物乞いをしながら座っていた」のであります。当時の盲人のこの道端で物乞いをする姿は、人間社会から見捨てられた存在の典型であったでしょう。彼は、群集が通り過ぎていくのを耳にし、「これは一体何なのか」と聞き、知ろうとしていました。それはエルサレムへと過ぎ越しの祭りに向かう巡礼者たちの群集でありました。この盲人は、「ナザレの人イエスのお通りだ」と知らされて、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と言って叫び声を上げます。
「ダビデの子イエスよ」、それは、主がメシアであり、待たれた救い主であることを、この盲人は理解したことを表しています。それは、当時一般に待望されていた政治的軍事的な解放者を意味するものではなく、このお方は、自分の罪と死と闇から解き放ってくださるに違いないメシアであることを、この盲人は信じたのであります。前を行く人々はやって来て彼を黙らせようと咎めますが、彼はますます激しく叫び続けます。
「ダビデの子よ、私を憐れんでください。」これは、私たちの礼拝に集まる姿を現しているのではないでしょうか。私たちは毎週の礼拝において、キリエを歌います。「キリエ エレイソン」すなわち「主よ、憐れんでください」という願いを、このバルトロマイと共に毎週歌うのであります。
主は、立ち止まられ、自分のもとに彼が来るように命じられ、彼が近づくと「私に何をしてほしいのかと」問われます。私たちも、何をしてほしいと教会の礼拝に集うのでしょうか。それを主を前にしてはっきりと告白したい者です。彼は、「また見えるようになることです」と端的に答えます。私たちも自分の心からの願いを十字架につかれた主にはっきりと求めるものでありたいです。そして毎週の礼拝を、「神の言葉が見えるようにされ、あなたのお言葉が分かるようにしてほしいのです」と祈る場にしたいものです。
さて、主は、「あなたは再び視力を得るようになれ。あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われ、彼はたちまち視力を回復し、神をあがめながら、主に従っていったのであります。すなわち、彼はこの時から主イエスの弟子となったのであります。そして、これを見た民衆もみな神を賛美したというのであります。私たち津田沼教会の群れも主イエスがどのようなお方であるかを見抜く目を与えられ、主と共に、この受難節も歩むことができる者となりたいと思います。
望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン。






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2007/03/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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