津田沼教会 牧師のメッセージ
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「強い者と弱いキリスト」(ルカ4:1~13)中川俊介牧師
ルカ4:1-13、2007・02・25、四旬節第1主日(典礼色―紫―)
ルカによる福音書4:1~13
 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。
 「『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。
 『神はあなたのために天使たちに命じて、
 あなたをしっかり守らせる。』
 また、
 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える。』」
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。



説教「強い者と弱いキリスト」(ルカ4:1~13)中川俊介牧師
 私は四月から八王子教会の方で、働くために引っ越します。今まで12年間、千葉ニュータウンに住んできました。私の住んでいるマンションの北側には大変閑静な住宅街が広がっています。人々は、強い意志をもって朝早く起き、遠い距離を通勤し、一生懸命働いて住宅ローンを返し、週末には大体平均60坪あるゆったりした家で楽しく家族と過ごしている。それが平均的な生活です。まあ、ある面では自分の人生をコントロールできていると言えるでしょう。
 ところが、それがそうではないんだ、という事件が何年か前に起こりました。どこにでもある普通の家族、普通の家庭に起こったのです。きっかけは小さな尖った石でした。これもまた、どこにでもころがっている普通の石です。ただ、あるとき、住宅地の子供がその石を手にしました。そして、マンションの駐車場に何十台も並んだ車を見ました。子供なら、この石で何か、ピカピカの車の上になにか書けないかなと思うこともあるでしょう。その子供は、それを実行してみました。大変に面白かったに違いありません。次々と模様や字をいろんな車に書いていきました。
 残念ながら、強い意志をもって築き上げてこられた、この子供の家は崩壊しました。きっかけは子供のちょっとしたいたずらでした。しかし、20数台に及ぶ被害は、こつこつと住宅ローンを返してきた家族には重過ぎました。あまりにも高額の弁償金を払えず、あの楽しい家庭の土台だった家を売り、親は離婚し、家族はバラバラになってしまいました。その原因はあの一つの尖った石でした。
 今日から、教会の暦では、四旬節、昔の言い方では受難節が始まります。レントとも言います。優しかったイエスさまが、皆から捨てられ、弟子たちも逃げてしまい、罪ある人として十字架にかけられたことを、思い起こす季節です。思うたびに胸の痛むことです。あんなに力のある、あんなにも信仰心も強い、立派なイエスさまが当時のローマ時代の処刑としては、最も苦しく、最も残酷な形で、殺されねばならなかったのは何故でしょうか。私たちも、それほどではないにしても、人生の苦しみを味わわなければならない時がありますが、何故でしょうか。
 今日の福音書の日課は、イエス・キリストの荒れ野での誘惑を通して、私たちに、何故そうなのか、それを語りかけている気がしてなりません。
 本文に入る前に、私の心に時々浮かんでくる聖書の箇所をお読みしたいです。ヤコブの手紙4章13節から16節まで。この箇所は、私たちに何を教えているでしょうか。皆さんはどう思いますか。私はこうです。自分があることを頑張っているとします、人生の段取りを考えています。これもしよう、あれもしよう。でも、その時に、ああ、間違っていた。もし、神の御心なら、それをすることが許されているだけで、自分には人生を支配する力はない。イエスさまが教えたように、私たちは、髪の毛一本すら白くも黒くもできない。本当は弱い存在なのだ。そういうことです。
 イエスさまの誘惑の話しに戻りましょう。実は、私はイスラエルに留学したときに、エリコという町の近くにそびえる断崖絶壁のこの誘惑の山に上ったことがあるんです。今考えると、自分もこわいもの知らずだったなと思います。エルサレムからバスに乗ってエリコまで一人で行ったんです。そして、エリコから山までは急な坂道でした。あんまり暑いので手ぬぐいを水で濡らして頭にターバンみたいに巻いたんです。なんと10分でバリバリに乾いたことが、凄く記憶に残っています。誘惑の山といっても丸いやまではなくて、高い高い崖なんです。ここでイエスさまが40日40夜断食し、悪魔から誘惑を受けた。そう思うと、下を見て震え、また何か身震いを覚えます。私が登ったときには、こんな有名な場所なのに観光客は誰もいませんでした。ただ、一人の現地の人が、管理人みたいな仕事をしていて、崖を見下ろすところにある台の形をした石を指さして、ここにイエスさまが座っていたんだ、というのです。ウソだか本当だかわかりませんが、何百年もその事が言い伝えられてきていると思うと、心が震えるんですね。なぜだか解らないんですが、そこを去るとき、そこの管理人が、あなたは立派な牧師になる、と言ってくれたんです。あれは、誘惑の言葉なのか神の言葉なのか、いまも理解できていません。
 ちょっと話題がそれてしまいました。イエスさまの誘惑に戻りましょう。イエスさまは正しい人であったのに、悪魔の誘惑を受けました。それも、三回受けました。一回目は、激しい空腹の中で、石をパンに変えたらどうか、という誘惑です。これは、私たちが乏しいとき、何も持たないときに受ける誘惑の形ですね。自分の力でどうにかしたいんです。本当に飢餓に苦しんでいたら、他人のものを盗んでも、腹を満たしたい、そう思うでしょう。ラインホールド・ニーバーという神学者が言っているんですが、普段私たちは限界に立たされていないから、人を殺したり盗んだりすることは全く自分とは関係のない、言わば、試練を受けていない「善人」として生きている。でも、人間は極限状態で試されなければ、善とは言えない、と言うのです。本当にそうです。試みられていない素朴な善はまだ見せかけの善である。ルターも財布が一杯で、倉庫も一杯、畠にも作物が一杯の人間は、自分が誘惑を受けるということにさえ気づいていない、と述べています。
 何も無い、乏しいという事はつらいです。物だけではありません。会社に行くが、窓際族にされてしまい、仕事がない。これもつらい。学校に行く。だけど、いじめにあって、話してくれる友達がいない。これもつらい。今まで、守ってきた、健康を失い、家族を失う、これもつらい。
 イエスさまの第一の誘惑は、このつらさに関係するものでした。イエスさまは、旧約聖書申命記8章3節の言葉を引用して答えました。ある学者は、ここに、神にしがみつく弱いキリストの姿が表されている、と述べています。神を信じているんだから、不可能なことは無いはずじゃあないですか。石だってパンに変えられるはずです。神という存在において不可能はないとイエスさまは、他の場所で教えておられる。ところが、この誘惑の山で弱い。徹底的に弱くなっている。イエスさまが十字架にかけられた時も弱かったのですね。逃げることだってできたのに逃げなかった。自分はあれができる、これもできるとはおっしゃらない。むしろ、できない。悪魔のほうは、もしお前が神の子なら、これも自由にできるはずだ、あれも自由にできるはずだ、と迫ってくる。
 では、第二の誘惑はどうでしょうか。最初の誘惑に成功しなかった悪魔は、今度は貧しさとは逆に、豊かさで誘ってくる。人間はこれに弱いですね。いろいろと持っていれば、それだけ気前よくなるかというと逆です。手放したくない。芥川龍之介という作家は、蜘蛛の糸、という話しで、人間のそんな気持ちをうまく表現しましたね。自分が握った幸福の糸を手放したくないんです。やっぱり、生身の私たちは、表面的にはどんなであっても、心の底では、人生を思い通りに動かしたいという強い面を持っています。ただ、それでもやっていけるのは、神が忍耐してくださっているからです。お前の命は、明日までだ、と言われて、はい、アーメン、その通りになりますようにと言えるでしょうか。
 イエスさまは、第二の誘惑に対しても、自分はこう思うとか、自分にはこんな力がある、という表現はされないで、旧約聖書を引用しています。これは、私たちも学ぶべき大切な点です。申命記から引用しています。6章13節からです。決して、悪魔の誘惑にのって、私にはそれができるとか、できないという、自己判断をくださない。明日のことを当然明日があるかのように自己判断をくださない。
 ルターは、やはり四旬節第一主日の説教で、荒れ野の誘惑の話を日課としています。ルターは、三つある悪魔の誘惑で、乏しさと豊かさの誘惑は、この世の事柄を扱っており、ルカの福音書では最後の誘惑となる神殿の誘惑は、最も困難な誘惑であり、霊的なものだと述べています。
 この世のことは、ある程度コントロールできるのではないでしょうか。一般的な宗教は、それを実践している気がします。千葉県でしたら市川市に日蓮宗の有名なお寺がありますね。そこでは、お坊さんたちのための百日の行というのがあって、約三ヶ月、寺に籠もって不眠不休の修行をするのですね。仏教の教えがそうだと思いますが、いろいろ持っていないと不満をもらしたり、逆に、持ち過ぎていて傲慢になることを戒め、そういうエゴをコントロールするために修行するのですね。キリスト教の修道院なども同じような意図を持っていると思われます。
 ただ、第三の誘惑が難しいのは、それが神殿で起こっていることです。宗教の神聖な場所であるはずのところで起こっているからです。
 アメリカのイラク戦争でも、その戦争を指導しているブッシュ大統領とかライス長官とかは敬虔なクリスチャンと社会的には言われています。でも、本当にそうなんでしょうか。私には疑問です。これを、私がもっと痛切に思った時がありました。それは、第二次世界大戦の末期の記録映画でした。あの広島に原爆を落とした、エノラゲイという爆撃機の映像が出ていました。その前に、どこかで見たような式服を着た牧師が、これから爆撃に行く乗組員に祝福を与えているんです。解説では、ルーテル教会の牧師だということでした。やっぱり、少しショックでした。でも、その牧師だけが悪いのではありません。私もえらそうに言っているだけで、同じ立場に立たされたら、何をしているかわかりません。ここで、私たちがどうしても忘れてはならないのは、霊的な誘惑が神殿の中や、教会の中で起こったことです。そのとき、私たちは本当に傲慢な気持ちが砕かれてしまうのではないでしょうか。愛の家であるはずの教会で愛と反対のことが平気で行われてしまうことがあります。
 イエスさまは、それを十分知っていらしたに違いありません。霊的な誘惑とは、神の言葉を利用してくる誘惑です。悪魔は、ここで、詩編91:11以下の言葉で誘惑してきました。信仰さえあれば、あなたにはこれができる、あれができる。今も、こういう可能性思考は流行しています。人間はそういう霊的な誘惑に弱いです。30年以上前に韓国のヨイド教会に見学に行ったことがあります。牧師のチョー・ヨンギ氏は可能性思考で有名な人です。その時の会員は1万人。教会も巨大でした。現在は数十万人だそうです。でも、それで驚いてはいけないんですね、最近は南米で巨大教会ができて、その教会の会員だけでも220万人いるそうです。やっぱり、人間は信仰を持ったら、不可能はない、というメッセージが好きなんですね。悪魔の誘惑に私たちは勝てません。だから、カール・マルクスのような社会問題と真剣に取り組んだ人からは、宗教は民衆の心を鈍らす麻薬、アヘンである、なんて言われるのですね。
 この詩編91編に対するイエスさまの応答は、やはり、申命記からでした。6:16です。神の上に私たちが立って、神を自分の願いや欲のために利用してはならない、そういうことです。
 ここまで来て、解りました。あの悪魔とは、私たちの考えの中に潜むものなんです。自分が自分の思いのままにしたいんです。それが、神から離れた人間の姿。無残な戦争をも賞賛できる人間の姿。だれが優れているとか、だれが一番だとかに夢中になる人間の姿。強い姿の中に、悪魔が潜んでいます。あるいは、自分が人生をコントロールしようともがいていることを知らない場合もあるでしょう。だからこそ、この誘惑のあと、イエスさまは十字架の道を歩んでくださった。自分の救いのためではなく、悪魔の思考に染められている私たちの救いのために、弱い者になってくださった。ここに福音があるのです。イエスさまが十字架を避けたり、こわがったりしなかったように、イエスさまの救いを信じる私たちも、試練や誘惑を恐れず、自分の力ではなく、神のご恩寵のみを信じて歩んでいきましょう。最後になりましたが、あれほどにイエスさまが引用された申命記ですが、ユダヤ教は申命記から始まるとも言われています。何故なら、ユダヤ人の一日は申命記6章4節以下から始まるからです。おそらく、イエスさまの時代も同じだったでしょう。シェマー イスラエルの有名なことばは、毎朝述べられています。イスラエルよ、聞きなさい。神を愛しなさい、隣人を愛しなさい。自分で何かを成し遂げられると思ってはならない、神にゆだねなさい。神の導きを求め、神の声を聞きなさい。いや、それも誤ることがあるから、ただ救い主を信じなさい。ただ信ぜよ。



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2007/02/25(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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