津田沼教会 牧師のメッセージ
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「キリストにのみ聞き従え」(ルカ9:28~36)
ルカ9:28-36、2007・02・18、変容主日(典礼色―白―)
申命記34:1-12、コリントの信徒への手紙二4:1-6

ルカによる福音書9:28~36
 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現われて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。




 説教「キリストにのみ聞き従え」(ルカ9:28~36)
 
本日は変容主日を迎えました。主の変容日は、ローマ教会では今でも8月6日と定められています。ただし、現在はローマ教会でも、四旬節第2主日に主の変容の福音個所が読まれるようになりました。
それに対して、ルーテル教会では、ルターによると言われていますが、日曜日の福音個所として、受難節前第1主日すなわち、顕現節の最終主日に組み込んだのであります。そして、教会で用いる色は神ご自身を表します白となっています。そして、いよいよ今週の2月21日(水)から、四旬節に入り、津田沼教会でも灰の水曜日礼拝を守ります。
 さて、今日の主の変容の出来事を、ルカ福音書9:28-36を通してもう一度ご一緒に思い起こしてみましょう。本日の始まりの部分は、「で、起こったことには、それらの言葉の後8日ほどたって、主はペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山へと上られた」と訳することができます。ルカは、しばしば大事なときに祈られ、あるいは、山に上られて祈られたという主イエスの祈りを強調しています。たとえば、12使徒を選ぶとき、主は山に上られ、世を明かして祈られましたし、ゲッセマネの祈りにおいては、やはり徹夜で祈られ、汗が血が滴るようにぽたぽたと落ちたという記録をルカは残しています。聖書の神は、私たちのために徹夜をなさる神であるというふうに言われるのであります。
さて、ルカが「およそ8日たって」というのは、マルコやマタイの「6日の後」とは異なっていますが、これはおよそ1週間たってという完全数を表しているか、刈り入れの祭り、あるいは、仮小屋の祭り(仮庵祭)が1週間続くのを意識して、変えたのかもしれません。
 そして、起こったことには、彼が祈っているうちに、彼の顔の外観が別のものとなり、その衣は真っ白に光っていたというのであります。マルコは、「彼の姿が変身し」という意味の言葉で表していますが、ルカは、主として異邦人に対して書いているので、異教の神を想像させるマルコの用いている言葉を書き改めているのであります。「そして、見よ、二人の人が彼と話し合っていた」とあり、「それは、モーセとエリヤであり、彼らは栄光において現れ、やがて主イエスが成就しようとしていた最期のことを話し合っていた」のであります。この「最期」と訳されています言葉は、エクソダスという言葉であり、「出エジプト」を表わす言葉であり、さらには出発を表わす言葉であります。
そしてペトロと彼と共にいた者たちは、眠たさでまぶたが重くなっていましたが、なお、起きていると、主イエスの栄光と彼と共にいる二人を見たのであります。ルカだけが、主イエスの栄光を見たことを記しています。モーセは、やがて、自分のような預言者が現れる、その時には彼に聞き従えとイスラエルの民に約束していました(申命記18:15)。また、預言者エリヤは、偶像礼拝に対して徹底して戦い、最後は天に上げられた預言者で終末の時に再び来ることが、イエスの時代には期待されていました。その旧約聖書、特に律法と預言者を代表する二人の人物が、今、ペトロたちの前に現れ、主イエスと、やがてエルサレムで、主が遂げようとしている出発について話し合っているのであります。
ルカ福音書は、エルサレムにおける神殿でザカリヤに起こった出来事で始まり、同じくエルサレムで、弟子たちがオリーブ山において復活の主が天に上げられるのを見送った後、戻って来て、神殿で絶えず神をほめたたえていたという礼拝の記事で終わるのであります。  ですから、主イエスは、十字架での死で終わるのではなく、復活させられ、天へと上げられ、天へと出発するという終わり方になっているのです。イスラエルの民が出エジプトにより奴隷の民から約束の地へと解放されたように、私たちも新しいイスラエルとして、主イエスの十字架と復活と昇天において、罪からの脱出が実現されているのであります。
 さて、モーセとエリヤが彼らから分かたれていったとき、ペトロは主に向かって言います。「師よ、私たちがここにいるのは利点があることです、それで、仮小屋を三つ作りましょう、一つはあなたに、一つはモーセに一つはエリヤに。」彼は自分が言っていることを分かっていなかったのであるといいます。そして、ペトロがそう言っていると、雲が起こり、彼らを覆いました。で、彼らはその雲の中へと入っていくので恐れました。すると、雲の中から声が起こり、こう聞こえたのであります。「これは、私の子、選ばれた者。あなたがたはこれに聞き従え」と。そしてその声が成ったとき、主イエスだけが見出されたというのであります。そして、彼らはその当時誰にも何も彼らが見たことを伝えなかったと、本日の個所の終りには、記されています。
 本日の不思議な出来事に対して、多くの人がいろいろな解釈を加えてきました。ある人は、実際にあったことをそのとおり記していると言います。しかし、もしそうであれば、後にペトロや弟子たちが主イエスを見捨てて逃げ出したということは起こりがたいとして説明が難しくなります。ある人は、この出来事は、ペトロが、あるいは、他の二人と共に一種の心理学的な幻を見たのではないかと主張します。しかし、本日の記事が伝えているような確かな記事は、個人的な単なる幻では書けないものであります。またある人は、主の復活顕現の出来事をガリラヤ宣教の時代にさかのぼらせて書いてあるのではないかといいます。しかし、それも、ここで用いられている言葉と、復活顕現で用いられている言葉とは非常に異なっているので無理があることが指摘されています。
 しかし、少なくと言えることは、この出来事は、ペトロがこの個所のすぐ前のところで「あなたは神からのメシアです」と告白したその出来事の意味をさらに深める内容の出来事であったということです。
主イエスの洗礼のときは、天からの神の言葉は、主イエスに向けての「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声でありました。しかし本日は、弟子たちに向けて、雲の中に現在する神が「これは私の子、選ばれた者、あなたがたはこれに聞き従いなさい」との啓示の言葉を示されたのであります。このお方は、私たちの罪のために十字架の死を遂げられたのみでなく、復活され天に上げられたお方であります。私たちは、主イエスの時代から2000年たちました現在も、主イエスの伝えているお言葉、聖書の言葉とは異なる、あるいは相反する多くの偽りの言葉や教説あるいはそのような環境に取り囲まれて過ごしています。確かに尊重すべき他宗教の問題もあります。しかし、私たちにとっては聖書が唯一の確かな拠り所であります。私たちは絶えず、主イエスの真実のお言葉に耳を傾け、聖書に親しみ、あるいはそれに常に立ち返りながら、主イエスに聞き従って歩む人生を送りたいものです。これからの1週間もそのような1週間となりますように願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせてくださるように。アーメン。


 





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2007/02/18(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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