津田沼教会 牧師のメッセージ
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「死の克服」(ヨハネ11:17~53)
ヨハネ11:17-53、2005・03・13、四旬節第5主日(紫)
エゼキエル書33:10-16、ローマの信徒への手紙5:1-5

ヨハネ福音書11章17節~53節
 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。


説教「死の克服」(ヨハネ11:17-53)
 いよいよ、四旬節も深まり、主イエスの十字架の道行きをおぼえる期間もあと、2週間となりました。ここのところ、この受難節に、ヨハネ福音書の箇所が3回に渡って、与えられています。本日は、ヨハネ1:17-53から、この部分が四旬節に与えられている意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 さて、私は、本日の説教題を「死の克服」というふうにつけておいたのですが、これはむしろ、「罪と死の克服」というふうに付けるべきではなかったかと今では思っています。
 それと言いますのも、わたしたちの罪に陥っている状態は、まさに死であるからであります。確かに私たちの人生の終わりには、すべての人に肉体的な死ということが待っています。しかし、それと共に、いや、それ以上に私たちが克服しなければならない問題は、罪の問題であります。私たちは罪に生きている時、実は死んでいるのと同じだからであります。さて、本日の福音書の部分は非常に長いのですが、私はあえて、与えられているとおりのペリコペーを、週報にも載せまして、考えることにしました。ここの箇所は、まさしく主イエスの十字架にもつながっていく出来事だからであります。
 さて、主イエスがベタニアの近くに着きましたとき、既に、ラザロが死んでから四日がたっていました。四日もたてば、もう生き返る希望は絶たれていると考えられるのであります。さて、そこに主イエスがお出でになったとの知らせが行ったのでしょう。マルタはそれを聞くと急いで、主イエスのところに来て言いました。もし、あなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は、死ななかったでしょうに、と。盲人の目をさえも開け、数々の病人をいやしてきた主イエスがここにいてくださったなら、弟は死なないですんだでしょうに。そう言うのであります。しかし、マルタはそれに続けて、しかし、今でもあなたが神にお願いすることなら何でも神は答えてくださると信じています。そう言いますと、主は言われます。「ラザロは復活する」と。これは、起き上がるという言葉であります。わたしたちがもう死ぬことはないという意味での復活と同じ意味ではないような気がします。しかし、四日もたっているのですから、単なる生き返りとは思えません。
 マルタは、当時のユダヤ人たちが信じていた終末の教えを取り出してきて答えます。「終わりの日の復活において、彼も復活するであろうことは存じています。」主は言われます。「わたしは復活であり、命である。私を信じる者はたとえ死んでも生きる。わたしへと生き、信じるものは永遠に死ぬことはない。このことをあなたは信じるか」と言うのであります。マルタは、「はい、信じました、あなたが、メシア、神の子、この世界へおいでになられている方であることを」と答えます。さて、作家であり牧師でもある佐古純一郎氏は、日本が敗戦し、自分自身まったくの虚無感にとらわれていました時、たまたま持参してきていた新約聖書を取り出して、がむしゃらに読んだそうです。そして本日のこの箇所に来て、この不思議なマルタという女性の信仰は何なのかと、突き動かされて、この女性の生き方に自分も賭けてみようとついに洗礼を受け、浄土真宗の寺の出であったにもかかわらず、牧師にまでなったことをうかがったことがあります。佐古先生は、死んでも生きることができるという信仰が与えられたのであります。わたしたちも、多くの誘惑や試練や困難に出会って、つぶれそうになることがしばしばあります。けれども、このマリアではなく、主イエスと対話を交し合うマルタの積極的で確固とした信仰に学びたいものであります。
 主は、「メシアであり、神の子であり、そしてこの世界へとおいでになられた方」であります。主イエスと共に既に救いの時代は始まっているのであります。さて、マルタは、家に帰り、マリアにひそかに告げて「先生が、お出でになっています」と言いますと、マリアは座っていましたが急に立ち上がり、急いで、マルタが主イエスと会った場所まで行きました。大勢のマリアを慰めに来ていたユダヤ人たちは、それを見て、マリアは墓に泣きに行ったのだろうと後を追います。マリアは、主の足もとにひれ伏し、言います。「あなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」主イエスは、「どこに彼を葬ったのか」と言うと、ユダヤ人たちは、「来て見てください」と墓場に案内します。マリアもユダヤ人たちも泣いているのを御覧になって、主は心に憤りを覚え、心を動かされます。そして、墓に向かう時、主は涙を流されました。ユダヤ人たちは、それを見て、「なんとイエスは、ラザロを愛していたことか」、あるいは、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言います。主は再び、憤りを覚え、洞穴の石を開けるように言われます。マルタがもう四日もたっていますからにおいますと言うと、主は、「あなたは神を信じるならば、神の栄光を見る」と言っておいたではないかと言われます。
 この「主が憤おりになられた」というのは、主イエスを理解しないユダヤ人たちの不信仰に対してであったでありましょう。主は神に目を上げ感謝して言われます。「あなたはわたしに何でも聞いてくださることを感謝します。しかし、私がこう言うのは、自分のためではなく、周りにいる人々がそれを見て信じるようになるためです」と、言われました。そしてそれは、今この聖書を聞かされている私たちも信じるようになるためであります。
人々が石を持ち上げると、主は大声で言われました。「ラザロよ、出て来なさい」。すると、死人は、手足を布で巻かれたまま、顔にも覆いをして出て来ました。「彼をといてやり、いかせなさい」と主はお命じになりました。そしてこのことがあって、多くのこれを見た人は信じたのでありますが、中には、エルサレムに行ってこのしるしの出来事を伝える者もいました。そのとき、祭司長たちファリサイ派の者たちは、どうしたらいいものか途方にくれました。すると、その年の大祭司カイアファが立って言ったのであります。「一人の人がこの国民とこの聖なる場所を奪われないために死ぬほうが益であることがわからないのか。」それは、彼自身から言ったのではなく、その年の大祭司として、預言して言ったのだとヨハネ福音書記者は記し、この言葉によって、主イエスを殺すように彼らは決定したというのであります。わたしたちは、ラザロのこの復活の奇跡によって、主が十字架につくきっかけとなったことを知るのであります。私たちの罪のために、またその帰結である死の克服のために主は、本日の奇跡を行われました。しかしこのラザロもまた、地上の生活を終え、やがてはわたしたちと同じように再び死んだことでありましょう。しかし、私たちはこの出来事を通して、肉体の死を経ても残る復活と命、朽ちることのない命を与えられているのであります。本日の出来事を通して、わたしたちは、わたしたちのためにつけられた主の十字架を見上げ、感謝して地上の限りある命を有意義に過ごしたいものであります。

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2005/03/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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