津田沼教会 牧師のメッセージ
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「恵みの年の実現」(ルカ4:16~32)
ルカ4:16-32、2007・01・21、顕現節第3主日
エレミヤ書1:4-8、コリントの信徒への手紙一12:1-11

ルカによる福音書4:16~32
 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音を告げ知らせるために、
 主がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、
 捕らわれている人に解放を、
 目の見えない人に視力の回復を告げ、
 圧迫されている人を自由にし、
 主の恵みの年を告げるためである。」
 イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。




説教「恵みの年の実現」(ルカ4:16~32)
本日は、顕現節の第3主日であります。そして与えられています福音の個所は、ルカ4:16-32であります。これは、主が洗礼をお受けになり、そのとき、聖霊が彼の上にくだりました。その後、聖霊に導かれ、40日間の悪魔の誘惑にあわれた後に、ガリラヤに戻って来られます。そして、諸会堂で彼は教えられ、その名声がガリラヤ一帯に広がったのであります。
そして彼は、お育ちになった立ちになった故郷の町、ガリラヤのナザレに戻ってきます。いつものとおり、安息日に会堂にお入りになり、朗読するためにおたちになります。モーセ五書と言われる律法の書が読まれた後であったでしょうか。係りの者は、イザヤ書の巻物を彼に手渡したのであります。主は既に有名なラビの一人として見なされていたのでありましょう。そして彼は、その巻物をお開きになり、イザヤ書の61編の冒頭の個所を見出します。それは、こういうふうなものでありました。「聖霊が私に向かってとどまっている。そして、主は私に油を注がれた。そして、私は遣わされた。それは、貧しいものに福音を宣べ伝え、囚人たちに解放を告げ、目の不自由なものに、視力の回復を、踏みにじられているものたちを自由において去らせ、主の恵み、主のご好意の、あるいは主に受け入れられた年を告げるためである。」そういう聖書の言葉を読んだ後、聖書を係りの者、今でいう執事のような者にお返しになり、座って語り始められます。「この聖書の言葉は、今日、あなた方の耳において実現された」と。主イエスは、待たれていたメシアとして来られ、今メシアの時代が彼の到来とともに始まったと宣言されたのであります。それは、バビロン捕囚以降の待たれていた社会的な、あるいは政治的な改革者を意味するものではなく、全人類を罪と悪魔と死、人間の闇から解き放つために来られたメシアであり、イザヤ書のその言葉は、私において実現したと言われたのであります。今までの預言者たち、イザヤやエレミヤは、「主はこう言われる」とか「主がこう語られた」と人々に宣言しましたが、主イエスは「私ははっきりとこう言う」と権威をもって語られるのであります。それは、今までの預言者たちにないまったく新しいお言葉でありました。
さて、故郷ナザレの人たち、それを聞いたとき、最初は、彼についてよい証言をなし、彼の口から出てくる恵みの言葉、人をひきつける言葉にただただ驚いていたのでありますが、しかし、すぐに変わり、彼らはこう言うのであります。「この者は、ヨセフの息子ではないか」と。人間的な判断からは、救い主イエスを理解することはできないのであります。 
そして、彼の故郷の人々による拒絶は、その公の生涯の初めにあり、そして、その後に続くイスラエル、主の民による拒絶の前触れ、予告であったのであります。そして、主の民とは異なる異邦人である者たちが、メシアの祝福に与ることになるのであります。
主は言われました。「はっきり言っておく、預言者は彼の故郷で受け入れらないものである」と。そして、エリヤが3年半の大飢饉になって、天が閉じたとき、イスラエルの多くのやもめのところには遣わされず、エリヤはシドンのサレプタのやもめの女のところにだけ遣わされたと言われ、また、預言者エリシャのとき、重い皮膚病の人がイスラエルに大勢いたが、シリアのナアマン以外にはだれも清められなかったと旧約の出来事を引用して言われたのであります。人々は、彼をその町が建っている丘の崖まで町の外へと追い出し、突き落とそうとしたのでありますが、まだ、彼のときは来ておらず、神によって守られて、奇跡的に人々の真ん中を通って去り、進んでいかれたのであります。そして彼は、カファルナウムにくだっていき、会堂で教えられましたが、彼の言葉は、権威、力においてあったので、人々を驚かせたのであります。旧約聖書は、イエス・キリストをメシアとして約束している書物であります。そしてお出でになる方は、イザヤ書に書かれている通り、苦難のしもべとしてのメシアでありました。私たちの罪のために、十字架にかかることが、このようにして旧約聖書を通して予告されているのであります。そして、ナザレでのこの最初の説教は、故郷の人々によって拒まれ、十字架につけられることの予告であります。しかし、主イエスのこの日の到来において、罪赦される恵みの年、メシアの時代が実現していたのであります。私たちも、この主イエスにより、もたらされている恵みの年を、人々に伝える証し人に一人一人がそれぞれに与えられている賜物を用いてならせていただきたいと願う者であります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。



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2007/01/21(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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