津田沼教会 牧師のメッセージ
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「老人シメオンとアンナの祝福」(ルカ2:25~40)
ルカ2:25-40、2006・12・31、降誕後主日(典礼色―白―)
エレミヤ書31:10-14、ヘブライ人への手紙2:10-18

ルカによる福音書2:25~40
 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 これは万民のために整えてくださった救いで、
 異邦人を照らす啓示の光、
 あなたの民イスラエルの誉れです。」
 父とは母、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれますー多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。




説教「老人シメオンとアンナの祝福」(ルカ2:25~40)
 皆さん、改めてクリスマスおめでとうございます。クリスマスは、12月24日のクリスマスイブから始まって、顕現主日すなわち、それはちょうど来年は1月7日が日曜日にあたり、その前日の1月6日の土曜日の顕現日までが私たちの教会暦ではクリスマスにあたります。デパートなどでは、もう新年を祝う門松などが飾られていて、クリスマスは過ぎたかのように扱われていますが、通常の暦で言えば、年末年始の2週間ほどが本来はクリスマスとして祝われるのであります。
 さて、本日、降誕後主日に与えられていますルカ福音書の箇所は、2:25-40までであります。私は、本日の説教題を「老人シメオンとアンナの祝福」というふうにつけておきました。シメオンが老人であったとは必ずしも明らかではありません。しかし、特に、私たちルーテル教会の式文の特徴であるといわれるヌンク・デュミツスの言葉からは、シメオンもアンナと同じく老人であったのではないかと、私には想像されるのであります。二人の老人から、生まれて間もない幼子イエスとその両親が祝福され、神がほめたたえられるということは、救い主としてお生まれになった主イエスにふさわしいことではないかと考えられるのであります。老人は、それも特に信仰深い、敬虔なお年寄りは、真実を見出すのに敏感で、聖霊の導きで待ち望まれていた救い主に出会い、その子のことで神をほめたたえ、感謝し、賛美するというのは、不思議なことですが、確かに起こったことなのだと私は信じる者であります。
 本日の出来事について、ご一緒に、もう一度、思い起こしてみましょう。
さて、エルサレムに、シメオンというイスラエルの慰められるのを待ち望んでいる正しく、敬虔な人がいました。そして、聖霊が彼に向かってとどまっていました。彼は、自分が、主のメシアに会うまでは死を見ないとの約束を、聖霊によって啓示されていました。その彼が、聖霊に導かれて神殿の境内に入ってきたちょうどそのときに、イエスの両親が、彼らの慣例に従ってささげものをするために、同じく、神殿の境内、おそらく婦人の庭といわれるあたりにやって来ました。シメオンは、その幼子を腕に抱いて、彼らを祝福して言いました。「今こそ主よ、あなたのお言葉通り、あなたはしもべを去らせてくださいます。なぜなら、私の両目はあなたの救いを見たからです。これは、万民の救いのために備えられたもの、異邦人たちへの啓示の光、み民イスラエルの栄光です。」これは、私たちが毎週の礼拝の派遣の部で歌うヌンク・デュミツスそのものであります。シメオンは、「ご主人さま、しもべの私は、あなたの救いを見たので、これで見張りの大任を解かれました。あるいはさらに、私は主の救いを見たのでもう安らかに死んでもいいですと歌うのです。私たちは、礼拝の場からそれぞれの生活の場へと派遣されるときに、シメオンとともに、このヌンク・デュミツスを毎週歌って出て行くようにと式文を通して導かれています。
 さて、このシメオンは、両親が驚いているとき、母親のマリアに向かって言います。「この子は、イスラエルの多くのものを倒れさせたり、起き上がらせるために、また、反対されるしるしとして、定められている。あなたの心を、あるいは魂を、大きな槍のような剣が貫くでしょう。それは、多くの人々の心の思い、論法、悪い性質があらわにされるためです。」確かに私たちは主イエスに対面するとき、従順に従うか、それとも主イエスに反抗して、神の裁きを招くか、そのいずれかであります。私たちは、主イエスに心から従いたいと思うものですが、力足りず、あるいは、油断して欲望に負けて倒れたり、主のお言葉から離れてしまうことがしばしばです。しかし、この幼子への信仰によって生涯の最後には、立ちあがり、主の平安に落ち着くことを得たいものであります。この幼子イエスが成長して世に現れても、面と向かって反対する者は、昔から今まで、いつの時代も国のいかんを問わず、非常に多いのであります。
 さて、そこに更に、アンナという年をとった、結婚生活を7年を夫とともにした、84歳になる、あるいは、91歳以上にもなるとも訳しうる女預言者がいて、彼女は、神殿に来ては、夜も昼も断食と祈りをして神に仕える人でありました。この人も、ちょうどこのとき、やって来て、神を賛美し、感謝し、彼イエスのことについて、エルサレムの贖い、救いを待ち望んでいるすべての人たちに、しゃべって聞かせることを続けていたのでありました。このアンナのあり方は、現代の私たちもそうであるべき典型的な、証しする信者の姿であります。
 二人の、おそらく、老人によって、祝福を受けた彼ら夫婦と幼子イエスは、この後、主の律法に定められたことを、両親が済ましたのでガリラヤのナザレに戻り、体も成長を続け、霊的にも強くなり、知恵に満たされて、神の恵みが彼に向かってあったと、本日の記事は結ばれています。アダム以来、初めての罪のない人間が、この地上で体も心も知恵も増し加えられて歴史世界の中で、成長しつつあったのであります。そして、このお方によって、さらに最終的には、この罪なきお方の十字架の死を通して、私たちは、罪をあがなわれ、赦され、そして、新しく生きることができるものとされているのであります。この二人の老人によって、ほめたたえられた主のメシア、生まれたばかりの主イエスの出来事を今一度、年の変わり目に思い起こし、新しい一年の出発をさせていただきたいものであります。
天の父なる神様。
 私たちは、自分の力では決して清くなることも、罪からまぬかれることもできません。約2000年前に生まれた本日の幼子イエスによってのみ、私たちは、罪の奴隷から脱することができます。常に、日々このみ子キリストに立ち返る一年でありますように、私たちを強めてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。




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2006/12/31(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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