津田沼教会 牧師のメッセージ
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「救いが見える生活」(ヨハネ9:13~25)
ヨハネ9:13-25、2005年3月6日、四旬節第4主日(紫)
イザヤ書42章14節~21節、エフェソの信徒への手紙5章8節~14節

ヨハネ福音書9章13節~25節
 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人人のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったいお前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの人が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」


「救いが見える生活」(ヨハネ9:13-25)
本日は四旬節第4主日であります。主の十字架への道行きをおぼえる受難節も深まってきました。次週とその次の枝の主日でもって、四旬節の6回の主の日は終わりまして、受難週を過ごして後、いよいよ今年は3月27日が復活祭であります。本日の箇所は、ヨハネ福音書9章13節から25節までであります。ここの箇所がどうして、四旬節の中の本日であります第4主日に与えられているのでありましょうか。それは、この四旬節が復活祭に洗礼を受ける準備期間でもありますことと関係しているようであります。四旬節の洗礼を受ける準備をしている人が、本日の箇所を洗礼準備のテキストとして、古くから読まれてきたいきさつがあるのであります。本日出て来ました盲人として生まれた人が、主イエスに出会っていやされ、見えるようにされることは、わたしたちが、洗礼を受けることと重ね合わせて考えることができるのであります。私たちが受けました洗礼を思い起こしながら、ご一緒に本日の聖書に耳を傾けてみたいと思います。さて、本日の箇所は9章の13節から25節まででありますが、むしろ、9章全体のストーリーから考えるのがよいと思います。一人の盲人が癒される一方、ファリサイ派の者たちは、イエスに自分たちは見えるものであると言い張ることによって、精神的に霊的に見えなくされるのであります。その9章の全体の流れから、本日の物語の意味をつかみとりたいのであります。この盲目であって、道端で物乞いをしていた男の人は、まず人々によって、今まで盲目であって、人々の目に留まっていた人物と同一人物であることが確かめられます。そこでも、この人は、主イエスがなさってくださった単純なふるまい、奇跡の出来事を、その通り、そのまま人々に告げています。そして今度は、人々によって、ユダヤ人たちのリーダーであったファリサイ派の者たちのところに、連れてこられます。ファリサイ派の者たちは、この人に同じように聞きます。「あなたはどうして見えるようになったのか」この男の人は再び言います。「あの方、イエスと言う人が来て、泥を作り、それを目の上にぬり、わたしは(シロアムの池に行って)洗いました、そして今見えているのです。」ヨハネ福音書のこの箇所の奇跡は、他のこの福音書で出てきます奇跡と同じように非常に単純で簡潔であります。奇跡はあくまでも信仰に至らせるための手段に過ぎないのであります。すなわち、主イエスはただ、泥をこねて、この人の目に塗り、この人が顔を洗うと見えるようになったという単純な出来事として、記されているに過ぎません。ファリサイ派のある者たちは、これは、5章で出てきますベトサダの池の病人をイエスが直されたのと同様にそれが安息日の出来事であったので、それに違反するイエスは、神からの者ではないと言い、また別の者たちは、このようなしるしどもを行う人が罪ある人である者ではありえないと反論します。そして、彼らの間で意見が分かれたと記されています。それは、「彼らにおいて対立があった」という強い表現であります。ファリサイ派の者たちは、彼に、「あなたは盲人で生まれたのに、なぜ、今見えるのか。あなたの目を開けてくれたものを、何だとあなたは言うのか?」と聞きますと、彼は「あの人は預言者です」と勇敢にも言い表したのであります。彼らはそれでも信じることが出来ず、仕方なく、その次にはその盲人であった人の両親を呼び出して聞きます。「この者は、あなたがたの息子で、盲人に生まれついた者か?それならその生まれつきの盲人がどうして今は見えるのか」と。彼らは答えます。「わたしたちは、これが自分たちの息子で、盲人に生まれついたことは知っています。しかし、どうして今見えるようになったのか、また誰が目を開けてくれたのかはわたしどもには分かりません。あれはもう十分な年ですから、直接聞いてください。あれが、自分で話すでしょう」と。それは、もしも、イエスがメシアであると告白するものがいれば、その者は会堂追放されたものになるとユダヤ人たちで決定していたからであるとヨハネ福音書記者は記しています。ヨハネ福音書が書かれたのは、紀元後90年ころであったと考えられます。ユダヤ人たちからの迫害が高まっていた、そういう中でこの記事も書かれたのであります。信仰を表明して、困難と窮境のなかでキリストへの信仰に生きるのか、それとも、従来どおりのユダヤ人社会の中にとどまるのかが、その当時のユダヤ人からキリスト教徒になった人々の大きな戦いでありました。しかし、この両親は、自分たちがユダヤ人たちから会堂追放され、破門され、また、その共同体からも排除されることを恐れ、主について告白することを回避したのであります。「彼はもう大人ですから彼にお聞きください。彼が自分で話すでしょう」と。それで、仕方なく、もう一度、ユダヤ人たちは、その生まれつき盲人であった人を呼び出して言います。「正直に言いなさい。」これは神に栄光を与えなさいと、文字通りには訳せる言い方です。「わたしたちはあの者が罪あるものだと知っているのだ。」盲人であった人は答えます。「あの人が罪ある人であるのかどうかわたしは知りません。ただ一つ知っていることは、以前は見えなかったわたしが今は見えるということです。」主イエスは、安息日にもかかわらず、また、どういう日であろうと、どのような切迫した中に置かれていようと、救いを必要としている人に救いを与え、病んでいる人に癒しを与えられました。彼は、この出来事の場面においても既に、命をねらわれている存在でした。(8章59節参照)主イエスは、「昼は12時間ある。夜がくれば、働けなくなる。」あるいは、「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方のわざを、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」(9:4-5)そう言われて、十字架の死に至るまで、福音を伝え、また救いの働きを続けられたのであります。わたしたちは、本日のこの盲人であった人の中に、わたしたちクリスチャンの模範である姿を見出すことができます。この人は、このあと激しく論争した後、追い出され、再び主イエスにまみえます。「人の子をあなたは信じるか」と、主イエスにたずねられると、「主よ、その人を信じたいのです」と答えて、救いに入られました。今、四旬節で主の十字架を覚え、洗礼を準備し、また、それを思い起こす時であります。わたしたちも今、世の光であるキリストに出会っている者であります。この盲人であった人が、迫害や圧迫にもかかわらず、主をメシアと言い表したように、わたしたちも、置かれていますそれぞれの生活を通して、主の救いをあおぎみ、また、人々からもわたしたちの生活を通して、キリストが見えると言われるような信仰生活を送っていきたいものでものであります。
人知では測り知ることのできない神の平安があなたがたのうちにありますように!
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2005/03/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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