津田沼教会 牧師のメッセージ
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「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(ルカ3:1~6)
カ3:1-6、2006・12・10、待降節第2主日(典礼色ー紫―)
マラキ書3:1-3、フィリピの信徒への手紙1:3-11

ルカによる福音書3:1~6
 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
  その道筋をまっすぐにせよ。
  谷はすべて埋められ、
  山と丘はみな低くされる。
  曲がった道はまっすぐに、
  でこぼこの道は平らになり、
  人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

説教「人はみな神の救いを見る」(ルカ3:1~6)

 本日は、アドベントの第2主日であります。先週のアドベントの第1主日は、主イエスのエルサレム入城に関わる出来事でありました。本日の記事は、主イエスの先駆者である洗礼者ヨハネの宣教の始めに関わるものであります。アドベントとは待降節と訳されていますけれども、そして、クリスマスを迎える準備の時だというふうによく言われますけれども、アドベントには、2000年ほど前の主イエスのご降誕によって実現したメシアの到来と言う第1のアドベントと、終末の時に、再びお出でになられる主の到来という第2のアドベントと二つの意味があると思います。本日選ばれていますルカ福音書3:1-6は、そのいずれに関わるものでしょうか。来週からの第3アドベント主日と第4アドベント主日の記事は、2000年ほど前の主イエスのご降誕そのものに直接関わる、お誕生前の出来事であります。本日の記事は、主イエスが公の宣教をお始めになる前の先駆者、神の使者としてのヨハネの宣教に関わる出来事であります。それは、主イエスのご降誕を迎えるに当たって、私たちの生活を整えるという意味合いもあるでしょうが、むしろそのお方が終末の時に再びお出でになるメシアを迎えるにあたっての生活の転換、神さまに、全生活と心を転換させる、もっと言えば、むしろ神さまの側から既に人間すべてに対して救いの道が備えられていることを思い起こす記事ではないでしょうか。
さて、本日の記事をもう一度ご一緒に思い起こしましょう。ルカは、歴史家でもあります。医者であったとも言われますが、現実の歴史の中に救い主が現れた次第を、歴史家の目で記しているのであります。それはまず、皇帝ティベリアスの統治の第15年目のことであったと記しています。皇帝アウグストゥスの後を受けて、即位してから15年目とは、紀元後28年くらいになるそうであります。この記事の後、主イエスの出来事があり、また、イエスが公の生涯にお入りになったのは、年齢30歳くらいのことであったと出てきますので、紀元前4年よりも前に生まれている主イエスが30歳過ぎの頃と思われます。
 その当時はパレスチナは、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデ・アンティパスがガリラヤの領主、フィリポ・ヘロデがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがこれには疑問もあるのですが、アビレネの領主であり、次に聖職者は、サンヘドリンのトップ、大祭司が、アンナスとカイアファであったとき、荒れ野において神の言葉、神の出来事とも訳せますが、それが洗礼者ヨハネに向かって起こったのであります。ヨハネは、洗礼を授ける必要からもそうであったのでしょう、ヨルダン川近隣の低地の一帯をやって来ては、罪の赦しにいたる悔い改めの洗礼を宣べ伝える、あるいは、神からの使者として、その必要性を説き、告げ広めていたのであります。悔い改めとは、メタノイアという言葉であります。心を変える、あるいは、神に立ち返るということであります。
それは、預言者イザヤの言葉の書に出てくる通りだというのです。イザヤ書40章の始めのところからです。そこでは、すべての谷は埋められ、山や丘は低くされ、主の道をまっすぐにせよと言われており、曲がった道はまっすぐにされ、また、でこぼこの、高低のある道は平らにされ、特に「すべての肉・人・人類は神の救いを見るであろう」と言われているのであります。それは、私たち自身の努力や才能によってではなく、神の側から、神によって、そのような救いの道が人間との間に備えられていると、聖書は約束してくれているのであります。
昔、出エジプトのイスラエルの民が、罪にまみれたエジプトの生活から、モーセを通して導き出され、ヨルダン川を渡り、約束の地に入ったように、私たちも罪に満ちた者でありますが、神さまの側からすべての人にヨルダン川を渡るという救いの道が備えられるのであります。このアドベントの良き日において、その主、神、み子に全てを委ねて、すべてを賭けて、歩んで行く者に再びさせていただきたいものであります。アーメン。
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2006/12/10(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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