津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「うるわしき救い主」(マルコ13:24~31)中川俊介牧師
マルコ13:24-31、2006・11・26、聖霊降臨後最終主日(典礼色―緑―)
ダニエル書7:9-10、ヘブライ人への手紙13:24-31

マルコ13:24~31
 「それらの日には、このような苦難の後、
  太陽は暗くなり、
  月は光を放たず、
  星は空から落ち、
  天体は揺り動かされる。
 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」



説教「うるわしき救い主」(マルコ13:24~31)中川俊介牧師
 
 今日の説教のテーマは、終末、あるいは世の終わりと言ってよいでしょうか、そうした厳しい状況のなかで、キリストこそが、賛美歌にもあるように「うるわしき救い主」であるという、福音の原点に立つことであります。
 私たちの教会の内海先生が最近、ルター関係の本を翻訳し、出版してくださいました。「ルターの慰めと励ましの手紙」というタイトルです。私は慰めという言葉が好きです。内村鑑三先生もある友人に、キリスト教はいいね、キリスト教には慰めがあるよと、よく語っていたそうです。
 さて、内海先生の訳された本に、ブリスガーという人への手紙が出てきます。ブリスガーは宗教改革側の教会に鞍替えしたために、カトリックの母親から、カトリックに戻って来ない限り、死んだ父親の財産相続をさせない、と通告されてしまった。その事で悩む彼に、ルターは慰めの手紙を書いています。一番印象に残るのは、手紙の最後の部分で、「聖書には、数多くのあなたにとっての慰めの言葉があります。私たちがすべてを失っても、キリストで十分です。」とあることです。素晴らしい言葉だと思います。「キリストで十分です。」ルター自身が慰められていたからこそいえる言葉です。
 さて、今日は教会の暦の中では、一年の最終主日であり、選ばれている聖書日課も、終末に関するものです。特にマルコ13章は、小さな黙示録とも呼ばれ、厳しい裁きの時の到来を予告しています。しかし、こういう場面でこそ、救い主イエス・キリストへの信頼、福音に絶対的な確信を持ち続けることが大切ではないでしょうか。
 今日の旧約聖書の日課を見ますと、福音書の日課と密接な関係のあるダニエル書7章からの引用です。ただ残念なことに、引用箇所が少し短くて二つのテキストの関連が見えません。30年ぐらい前まで、アメリカ・ルーテル教会で使われていた聖書日課では、ダニエル書7章9-14節までがはいっていました。ですから、救い主が雲に乗って来られるという預言の部分の関連がよくわかりました。もう一つ、テキストに関して、残念な部分があります。それは、マルコ13章27節の部分ですが、そこに「選ばれた人たちを四方から呼び集める」とあります。もともとのギリシャ語原典には「四つの風」から集めるとあります。風というのも方向を表すという説もあるので、四方にしたのだと思うのですが、それだと、ダニエル書7章2節の「天の四方から風が起こって」という箇所との関連が失われてしまいます。例えば、永井直治個人訳の「新契約聖書」というものには、風という表現が出てきます。原典に正確なのです。私たちは、なんでも新しい物は古い物より質が高いと思いがちですが、果たしてそうでしょうか。情報が渦巻く時代に生きている私たちは、自分でしっかり考え、たとえ聖書の翻訳といっても、鵜呑みにしないで比較してみるくらいの心構えが大切ではないでしょうか。植村正久先生という昔の伝道者は、「信徒もよく勉強し、信仰の本質をつかんでいる必要がある。そうでなかったら、信徒は自信がないから職場や家庭でキリスト教を証しできない」、そう言っていたそうです。余談ですが、風という言葉は、ギリシャ語でアネモス、アネモネという花の名前の語源です。そして、アネモネとシクラメンは、イスラエルの原生種で野の花です。イエスさまが、野の花を見なさい、神はこの野の花をも、栄華を極めたソロモン王以上に装ってくださる、と教えたのは、このアネモネのことであるという人もいます。今日の説教題は「うるわしの救い主」ですから、イメージ的には春一番にイスラエルで咲くアネモネを忘れることはできません。
 ただ、また、もとの聖書箇所に戻りますと、大変な終末が予告されているわけです。ダニエル自身も、7章28節で「ここでその言葉は終わった。わたしダニエルは大層恐れ悩み、顔色も変わるほどであった」と書いています。
 私たち自身はどうでしょうか。最後の審判に対する準備はできているでしょうか。卑近な例ですが、私の家内の祖父は牧師で、その息子である家内の父親も、神学校まで行きました。ただ、父親は、癌になり余命いくばくもないと医者から告げられてしまったのです。普段は無口な父だったのですが、そのとき、「困ったことになった、天国には行ったことがないけんな」と不安な気持ちを漏らしていたことを今も忘れません。準備がないときに私たちは不安になります。今は、受験シーズンですが、来春の試験という、最後の審判を控えて、受験生諸君は焦りと不安をもっていると思います。私たちも自分の経験の中で、何かを判定されるという、つらい立場を経験したことがあると思います。ダニエルの恐れ、悩みは、私たちもまた同じように共有する辛さであります。
 ところが、まれに、そうした試練が辛くない人がいます。重大な試合とか、重大な試験とかを楽しみにする人がいます。何故だと思いますか。ルターもそういう心境を述べています。何故かというと、十分に準備ができているからです。準備ができているときに、裁きの時にも確信をもてるのだと思います。
 ある聖書学者は、マルコ13章は、「神の国と宗教組織を同一視することや、この世の団体の成功や失敗が、神のもたらす将来と結びついていると考える過ちに警告を発している」と述べています。自分が教会員だから安心だとは言えないのです。それは、無意味なことではありませんが、十分な準備とは言えないでしょう。何故かというと、裁きに耐え得る準備とは、自分の犯したすべての罪の決着がついているということだからです。この辺がはっきりしていない限り、私たちはマルコ13章をいつも恐ろしい裁きの言葉としてしか、聞くことができず、福音の光をみることができません。準備ができていないまま、試練を受けるという最悪の事態に陥る可能性も否定できません。
 でも、ルターが述べているように、聖書には、数多くの慰めの言葉がちりばめられています。それは、福音の言葉です。一つだけ、私の好きな箇所を引用しましょう。ルカ福音書18章13-14節です。正しい人間だと自分で思っている人は、神殿で感謝の祈りを捧げた、「ところが、徴税人は、遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら言った。『神さま、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」
 イエス・キリストは、正しい人を招くためではなく、正しくない人、罪人のため、尊い命を犠牲にし、十字架の死によって、呪いの裁きを取り除いてくださった。私たちに厳しい命令をしてくる親や上司のようではなく、神の愛に動かされて、私たちの救いのために、どんな犠牲も惜しまない方が、神よりこの世に遣わされた。その方こそ「うるわしき救い主」イエス・キリストであると聖書は繰り返し、繰り返し、証ししています。
 ただ、残念ながら、中世の人々が、権威あるローマ法王を、キリストの代理と錯覚してしまったように、私たちも宗教組織に属していることが神の国に入る合格証であるかのように錯覚してしまう可能性も無きにしも非ずです。ルターも聖霊降臨後第26主日の説教で、キリスト教社会が、神の愛を見失い、説教者も学校の教師も、病院の働き人たちも、日々の食糧にも困っていると述べています。自称クリスチャンが増えてしまったと嘆いています。しかし、そんな暗黒的な状況の中でも、ルターは復員の希望を失っていません。こう言っています。「あなたがたは喜びをもって、最後の日を待つことができる。そして、裁きを恐れることはない。なぜなら、神はあなたがたを選んでくださったからだ。あなたは、『み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。われらの罪を赦したまえ』と祈ればいい。そこで、あなたは喜びに満ちた招きの言葉を聞く。『来なさい、恵まれた者。父なる神のみ国に入りなさい。』」
 私たちの罪は重く、最後の裁きには耐えられないでしょう。私たちの多くは、失格者でしょう。準備のできていない者でしょう。私もその点で、自分は失格者であると痛切に感じる者であります。ただ、そんな場合でも、唯一の、福音的な慰めは、本日の日課、マルコ13章27節の言葉です。うるわしの救い主、み子イエス・キリストは決して自分を救うことができない罪人を「天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、四つのアネモネなる風によって、選ばれた人たちを集め」てくださるのです。この選ばれた者というのは、自分の正しさに自信を持つ者ではなく、救い主にしか最終的な望みはないのだと、自覚させられた者。試練と困難を経て、ダニエルのように、恐れおののく者。己の弱さを認める者のことです。しかし、それは何という幸いでしょうか。まさに、その時にこそ、ルターが言ったように、「キリストで十分」なのです。
 この恩恵に与った者には、新しい使命が与えられます。あの自慢げな祈りを神殿で捧げた者のように、自己肯定することではなく、ルカ6章37-38節の言葉を心に刻み、そのように生きることです。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」この信仰と実践という準備が、神の憐れみによって与えられます時に、最後の審判は恐れの時ではなくなります。終末の時は、希望の時。天よりの風、アネモネの花咲く美しい時となります。ですから、是非、共に、終りの日までこの聖書の福音の言葉を、神の恵みによって信じ続けてまいりましょう。アーメン。
スポンサーサイト
2006/11/26(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。