津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神への自己委託」(マルコ12:41~44)
マルコ12:41-44、2006・11・19、聖霊降臨後第24主日(緑)
列王記上17:8-16、ヘブライ人への手紙9:24-28

マルコによる福音書12:41~44
 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」


説教「神への自己委託」(マルコ12:41~44)
 
私たちは、マルコ福音書を中心としながら、昨年の12月からはじまったアドベントの新年のときから、一年間の教会暦の歩みを続けてきました。来週の主日、聖霊降臨後最終主日をもちまして、一年間の信仰生活の歩みを終えようとしています。そして、本日与えられている福音、マルコによる福音書12章41節から44節では、主イエスとその弟子たちとは、既にエルサレムに入っていますが、12章の35節からは、もはや、ユダヤ教の指導者たちとの論争は終わっており、主イエスは、群衆と御自分の弟子たちに向かって語っておられるのであります。そして、主イエスの、三年ほどあったでしょうか、その公の宣教は、いよいよ本日の個所をもって終わりとなり、幕を下ろす個所となっています。そして、この後の13章は、マルコの小黙示録と言われる部分で、主は、エルサレム神殿の崩壊などについても、弟子たちにお語りになるのであります。
 さて、本日の個所12章の41節から44節に入る前の、群衆たちに教えられる12章の35節の部分から、振り返っておきましょう。主イエスは言われます。「メシアはダビデの息子だとどうして彼らは言うのか。ダビデ自身もこう言っているではないか。『主は、わが主に語られた。「私の敵どもを私の足台とするまで、あなたは私の右に座していなさい」と』。これは、詩編110編1節の言葉であり、ダビデの詩とされているものであります。神が自分の主であり、メシアである方にそう語られたのだから、メシアはダビデの子ではなく、ダビデにとっても主なるお方であると言われるのであります。群衆はこの主イエスのお言葉に大いに喜んだのでありました。そして、38節から40節まで、主イエスは、あなたがたは律法学者たちの偽善によく気をつけなさい、彼らはやもめたちの家どもを食い尽くす者であるなどと激しく批判されたのであります。エルサレムの神殿は、主イエスが宮清めをしなければならなかったほどに、当時の宗教的指導者たちによって、腐敗し偽善に満ちていたのであります。
 それから、本日の福音の記事となります。主イエスは、賽銭箱の向かい側に座って、群衆が神殿の境内、婦人の庭と言われていた個所に置いてあった13あったと言われる賽銭箱、献金箱に金を投げ入れるのをよく見ておられたと始まります。金持ちたちが、多額な献金を賽銭箱にこれ見よがしに入れていました。するとそこに、一人の貧しい身なりのやもめ、未亡人がやってきて、2レプトン銅貨、今でいえば200円くらいでありましょうか、その二つの銅貨を入れたのであります。主イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われます。「はっきりあなた方に言っておく、あの貧しいやもめは、他のだれよりも多く入れたのである。なぜならば、他の者たちは、有り余る中から入れたが、彼女は自分の持っているすべてのものを、全生活費を入れたからである」と。
 どうして、主イエスは彼女がやもめであり、2レプトンしか持ち合わせず、しかもそれが彼女の持っているすべてであり、全生活費であったことが分かったのでしょうか。それで、これは実話ではないのではないかと考える人もいます。しかし、大事な出来事のときに用いられる表現である、「弟子たちを自分のもとに呼び寄せて」とか、「私はあなたがたにはっきり言っておく」の表現が記されていますし、私たちは、主イエスの見抜かれるお力を聖書に書いてあるとおりに、素直に信じることが大切であると思います。この記事は、最初にも言いましたように、主イエスの公の生涯の宣教にピリオドを打つ大事な出来事であり、主のお言葉であります。
 そして、この無名の貧しいやもめは、実は、この後、数日後に、十字架におつきになる主イエス御自身を前もって示す人であったのであります。やもめが入れた2レプトンは、彼女の全生活費でした。この「生活費」というのは、ギリシャ語では、ビオスという言葉であり、命、あるいは生涯をも意味する言葉であります。この女性は自分の命を、全部神に明け渡したのであります。そして、主イエスも、この出来事の数日後には、ご自分の命を、生涯を私たちの罪のために、十字架上の死を通して、神さまに渡されるのであります。
 私たちは、私たちの教会の運営が経済的に苦しいことを知っています。マルチン・ルターは、献金について、古くは、十分の一献金と言うことがよく言われましたが、献金は、自分にとって多すぎてもいけないし、少なすぎてもいけないと言いました。今、社会が不安定な中で、献金があまりできないから教会にも思うとおり通えないという信徒の方や一般の方も少なくないでしょう。献金については今の教会が、改めて考え、心しなければならない課題でもあると思います。しかし、教会は、2000年近くの歴史を通して、本日の貧しいやもめの2レプトンの献金を通して守られてきたのであります。
 そして、私たちも、御自分の全生涯を、私たちの罪のために、献げて下さった主イエスに従い、一旦、自分の全生活を、経済生活も含めて、神さまに明け渡し、そこから、神さまによって、新しい人とされ、押し出されて、毎日の生活に遣わされていく一週間一週間を送りたいものであります。詩編の37編の25節にも、「若いときにも老いた今も、私は見ていない。主に従う人が捨てられ、子孫がパンを乞うのを」とあるとおりであります。
 祈りましょう。
 いよいよ一年間の教会暦の歩みを終えようとしつつあります。私どものわが身を振り返っても、多くのことが不十分であり、怠りや罪を繰り返してきました。しかし、あなたは、憐れみ深く、私たちをここまで、守り、助け、導いてくださいました。どうか、私たちも、本日の貧しいやもめに立ち返って、また、私たちの罪のために命を差し出してくださった主イエスに従い、新しい出発ができますように。津田沼教会の新しい一年の歩みに向かって、一人一人が生活を整えていくことができますように。そして、私たちがみ言葉によって養われ、感謝の日々を送れるように支えてください。キリストによって、アーメン。

 

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2006/11/19(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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