津田沼教会 牧師のメッセージ
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「私につながっていなさい」(ヨハネ15:1~17)
ヨハネ15:1-17、2006・11・05、全聖徒主日(白)
エゼキエル書37:1-14、ローマの信徒への手紙

ヨハネによる福音書15:1~17
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


説教「私につながっていなさい」(ヨハネ15:1~17)
 毎年10月31日は全聖徒の日でありますが、私たちは今日、全聖徒を記念する全聖徒主日の礼拝に与かっています。ここに言う聖徒とは、本日の週報の裏に教会案内を載せて、紹介していますように、一部の聖人を指して言うのではありません。聖徒とは自分が罪深い存在だと気づき、罪を悔い改めて、新しい生涯に入っていったすべての信徒を意味するのであります。
今朝は、この後、聖餐式にあずかりますが、それは、食卓の主である主イエス・キリストを中心として、私たち生きている者が手前に半円を描き、そして、既に天国に先に召された故人たちが、向こう側に半円を作って、主イエスのそのからだと尊い血に与かるのであります。そして、私たちは、一年に一度しか召天者記念礼拝をこの礼拝堂では、持ちませんが、実は、毎週の礼拝は、仮に聖餐式はなくても、天に召された方々と一緒に聖餐卓を囲んで、集い礼拝しているのであります。
 さて、本日与えられた福音の個所は、ヨハネ福音書15章1節から17節までであります。非常になじみのある個所であり、ここで主イエスは、ご自分は純正な良いぶどうの木、あなたがたはその枝であると言われています。そして、父なる御神は、そのぶどうの木の園丁、農夫であって、その枝の手入れをなさると言われるのであります。今、秋でぶどうのおいしい季節でありますが、パレスチナのあたりのぶどうの木は、その枝を石垣などにも這い伸ばし、私たちが日本で目にする棚のぶどう園以上に、たくましく育っているとのことであります。
ぶどうの木は、聖書では、旧約の時代から、イスラエルの民の象徴でありました。そしてしかし、イスラエルの民は、しばしば神さまから離れてしまい、悪いぶどうの木になりさがったということが、しばしば、旧約聖書を通し預言者などによって書かれています。私につながっていなさい、と主は繰り返し言われます。しかし私たちもまた、なんと容易に、み言葉から、そして主イエスのお言葉から離れやすい存在であることでしょうか。まがりくねったぶどうの枝は、良い実を結ばなければ、何の役にもたたないのであります。 
間違うことの決してない正しい真のぶどうの木である主イエスにとどまり続けることが、一番大事なことであります。そして、そのぶどうの木にとどまり、主イエスにとどまるならば、私たちは、私たちの力を超えた大きな実をむすぶことができると主は約束してくださっています。
そして、私たちが、豊かな実を結ぶ時、主イエスの弟子になるとき、天の父がそれによって栄光を受けると言われるのであります。主イエスにとどまり続けることが、必要なのであります。
 さて、本日の個所の後半では、主は、私たちをご自分の友だと言ってくださいます。そして、あなたがたを選んだのは私であって、あなたがたが、私を選んだのではないと言われます。
例えば、私たちが信仰を持ち、あるいは洗礼を受けたのも、私たちの決断によるのではなく、実は、主イエスのほうから、私たちを選び、招き入れてくださったのであります。     
さて、確かに、周りの私たちにかかわりのある人たちを、キリストへと招きいれるのは、困難な務めであります。しかし、選ばれた私たちには、私たちが実を結び、そしてそこにとどまり、人々を救いに入れる使命も一人一人の私たちに与えられているのであります。それは、主イエス・キリストが私たちのために、命を差し出し、命を私たちのために置いて、命を捨て、与えてくださり、神なるお方が私たちをしもべではなく、今やご自分の友と呼んでくださるからであります。
そして、主イエスは、私たちに一つの命令、掟を与えられました。それは主イエスが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うということであります。教会につながっている私たちが、愛し合うことこそが、その死を前にして、主イエスによって、私たちに命ぜられている唯一の命令であります。
私たちは、毎日多忙なことが多いのですが、この主の遺言に立ち返り、福音書を中心として、日々、神の言葉である旧約聖書、新約聖書によって力を与えられ、生かされていきたいものであります。そういう中で、先に召された信仰の先輩のことをも忘れることなく、覚えていきたいのであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


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2006/11/05(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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