津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「神による男と女の創造」(マルコ10:1~16)
マルコ10:1-16、2006・10・15、聖霊降臨後第19主日(緑)
創世記2:18-24、ヘブライ人への手紙2:5-9

マルコによる福音書10:1~16
 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まってきたので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造のはじめから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。


説教「神による男と女の創造」(マルコ10:1~16)
本日の説教題を「神による男と女の創造」というふうにつけておきました。主イエスは、エルサレムに向かって、さらに新たな旅の段階を迎えます。「彼はそこから立って、ユダヤとヨルダン川の向こう側へとやって来られる。そして、群衆どもが集まってきたので、いつものように教えておられた」と、今日の記事の出来事は、始まっています。
するとそこへ、ファリサイ派どもがやってきた後、彼を試そうとして、質問していました、離縁、すなわち、離婚することは律法で認められるのかどうかと。それに対して、主イエスは反問なさいます、「モーセはあなたがたになんと命じたか」と。彼らは答えます。「彼は、離縁状を書いて離縁することを、許しました」と。
主イエスは彼らにお語りになります。「それはあなたがたの心のかたくなさのゆえに、彼はまさにその命令を書いたのだ」と。そしてそれから、人間の創造について、男女の創造について語り始められるのであります。本日の第一の日課にあるように、創世記の始めに、人間の創造、男女の創造について書かれています。神は「人がひとりでいるのはよくない、彼にふさわしい助け手を与えよう」と言って、鳥や獣などを与え、人がそれらに名前をつけるのをはごらんになりますが、どれも人間にふさわしい相手ではありませんでした。それで、神は、最初の人、アダムを眠らせて、そのあばら骨から、女を造り、それがようやくふさわしい伴侶になったのであります。
主イエスは言われました。「創造の初めから、神は、人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は、その父母を後に残して、妻と一体になる、ふたりはもはや別々ではなく一つのからだである。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」  
「神による男と女の創造」について、私たちは、聖書を通してそのことを信じていますが、お互いの尊敬と理解いう点からみると、主イエスが言われるとおりの生活からは、程遠い現実を思い知らされます。後のアダムとエヴァが互いに蛇による堕落について、その責任をなすりつけあったように、感謝と尊敬のいたわりあう関係からは現実は遠いことを痛感させられます。
 さて、その後、家に入り、弟子たちが、そのことについて質問していると、主は言われます。「自分の妻を離縁して、他の者と結婚する者は、その最初の妻に対して姦淫の罪をおかすのである」と。また、「夫と離縁して他の男と結婚する女も姦淫の罪を犯すのである」と。現代一般的になっている一夫一婦制の根源的な始まりは、主イエスの言葉によるところが大きいでありましょう。しかし、結婚生活を続けるためには夫婦の清められた生活が求められてくるのであります。
さて、以上の出来事に続いて、今度は、人々が子供たちを主に触れていただきたいと主のもとに、連れてきます。ところが弟子たちは恐らく先ほどのような教えで忙しかった主イエスを混乱から守ろうとして叱り付けます。
しかし、主は憤られて、「子どもたちが来るのをそのままにさせよ、神の国はこのような者たちのものである」と言われ、抱いた後、手をおいて彼らを祝福するのであります。昨日は幼稚園の運動会に招かれてしばらく園児たちを見てきましたが、彼らは本当に嬉しそうで、目をきらきらと輝かせています。本日のこの部分の主イエスのお言葉は、主イエスの語られた言葉の中でも最も印象的な美しい言葉ではないでしょうか。主は子供たちのように、神のご支配を神からの一方的な賜物、贈り物として、喜んで受け入れる者でなければ、決してだれも神の国に入ることはできないと言われるのであります。
本日の主のお言葉を通して、わたしたちは、男女の関係を神による創造されたものとして、清められ、絶えず神のお言葉である聖書のひとつひとつの言葉に立ち返って、お互いに補い合い、また、子供たちのように心をむなしくして神に信頼を寄せ、主イエスにおいて到来している神の支配を喜び、受け取る者とならせていただきたいものであります。
祈りましょう。
天の父なる神さま。私たちは罪深い者であります。どうか、私たちの家庭生活、また、家族の関係をあなたのお言葉によって清めてください。互いに尊敬し合い、補い合い、ついには、愛によって結ばれた世界を築くことができますように。キリストによって祈ります。アーメン。
スポンサーサイト
2006/10/15(日) 10:30:03| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。