津田沼教会 牧師のメッセージ
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「人は皆、火で塩づけられねば」(マルコ9:38~50)
マルコ9:38-50、2006・10・08、聖霊降臨後第18主日(緑)
民数記11:24-30、ヤコブの手紙4:13-5:8

マルコによる福音書9:38~50
 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 「わたしを信じるこれらの小さい者の一人をつまづかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつかずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入るほうがよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身のうちに塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」



説教「人は皆、火で塩づけられねば」(マルコ9:38~50)
 秋が日ごとに深まり、私たちの教会暦の一年間の信仰の旅路もだんだん終りに向かって行きます。本日は聖霊降臨後第18主日となり、マルコによる福音書の本日の記事も、主が十字架を目指して旅している中で、語られた言葉集として位置づけられています。しかし、弟子たちは、主の第2回目の受難予告にもかかわらず、その真の意味が分からないで、先週の個所では、誰が一番偉いかと議論しあっていたのであります。先週の最後の文、マルコ9章37節では、主は、「私の名のために」、これらの子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのであり、また、私を受け入れる者は、私を遣わした方を受け入れるのであると言われたのであります。
本日の文は、それに続いて、あの雷の子とも主によってあだ名をつけられたヨハネが、主に、「先生、あなたのお名前を使って、悪霊を追い出している者を私たちは見ましたが、私たちに従おうとしないので、やめさせようとしました」と、まず、申し出ます。主イエスは、それに対して、「やめさせないがよい、私の名において、力あるわざ、すなわち奇跡を行い、そしてそのすぐ後に私をののしるようなことはだれにもできはしないであろう」、と言われます。ユダヤ人の生粋の弟子たちでなくても、主の名を使って同じ働きをすることに対して、主イエスは、たとえば「良いサマリヤ人の譬え」でも分かるように寛容でありましたし、それがやがて、初代の教会の人々にとってあるべき姿とされたことが、ここに示されているのであります。「私たちに反対しない者は、私たちの味方である」とは、異邦人の信仰ある者に対して、あるいはさらに、「しもべを癒してほしい、ですからお言葉だけをください」と主イエスに会いに来た異邦人の百人隊長の出来事においても窺えるように、主イエスの立場でありました。
「キリストの者であるという名において」、水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、その報いを失うことは決してないと、その弟子たちを助ける者たちには、大きな報いがあることを約束されているのであります。
それに続いて、「私へと信じている小さな者」すなわち信者、あるいは、求道者も含めてもよいでしょう、その者を罪に陥らせ、信仰から引き離す者は、大きな石のうすをのどにかけられ、海に投げ込まれるほうが良いとまで言われます。私たちは、主イエスへと信じる小さい信仰の者たちへも、さらなる信仰へと導くという大きな使命と責任を頂いているのであります。
さらに続いて、それには、自分自身をささげ尽くし、自分を罪に陥らせることから、回避させられ、永遠の命と神の主権、神の領土に自らを導くことが求められます。
「もしあなたの片手が、また、片足が、そしてまた、片方の目が、あなたを躓かせるなら、それを切って、抉り出して、不自由な体になってでも、命と神の国、領土に入るほうが、五体満足であっても、火が消えないゲーナへと落とされ、投げ込まれるよりも、あなたには良い」と、主は言われます。地獄、ゲーナとは、私たちが天国がゲーナか、どちらかに行くことになるその一方の場所であります。私たちは果たしてどちらに行くのでありましょうか。真剣に問わなければなりません。
腐敗と滅びの場所、「ゲーナ」では、彼らの蛆が死ぬことなく、その火は消されることはないのであります。
そして、主は言われます。原文では「なぜならば、すべての者は、火で塩味がつけられるであろうからである」と。それは、殉教や迫害と言った苦難の中で、当時の信者たちが経験していた試練を信者たちには想起させる言葉であったでしょう。しかし、このことは、2000年を隔てた現代の私たちもまた、現代の至るところに闇が覆っているような世界で、真実の弟子となるために火によって塩づけられ、純化されねばならないのであります。「塩は良いものであるが、もし塩が塩気をなくしたら、あなたがたは何によってもはや塩味をつけられるであろうか」と主は言われます。
キリスト者は、自分たち自身において塩を持ち、健全な常識を持つようにと、主によって招かれているのであります。そうすれば、穏やかな言葉や態度によって、お互いに平和に過ごすことができるのであります。キリスト者だからといって欠点のない完全な人物になることはできません。しかし、キリストを通して私たちはそれぞれに、渋い、味のあるキリスト者に、多くの試練や困難を通して成長させていただくことができるのであります。祈ります。
父なる神さま。あなたは、火によって、私たちを塩づけられ、ちょうどささげものに塩をかけて、清めるように、私たち一人一人を神の国へと、永遠の命へと、困難や訓練を通して純化してくださいます。私たちが、自己を放棄して、神と隣人のために、おのおのの十字架を喜んで担い、堪え忍んでいく者とならせてください。そしてまた、罪に陥ることから私たちを守り、み言葉に、どんな時にも聞き従っていく者とならせてください。キリストによって祈ります。アーメン。




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2006/10/08(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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