津田沼教会 牧師のメッセージ
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「さあ さあ おまかせ もう寝よう」(マタイ4:18~25)渡辺純幸先生説教
2005・01・23、顕現節第4主日(緑)
イザヤ書43:10-13、1コリント1:26-31
マタイ福音書4:18-25

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、船の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

「さあさあ おまかせ もう寝よう」(マタイ福音書4章18~25節)渡辺純幸先生説教

 晴佐久昌英神父の詩集「だいじょうぶだよ」にこんなのがあります。
  なんてしんどい一日だろう/
 人を傷つけ人に傷つけられ/
 自分で自分がイヤになる/
 そんな夜の合い言葉「さあさあ おまかせ もう寝よう」・・・・。

  なんてすてきな一生だったろう/
 いいことも悪いこともあったけど/
 すべてはきらめく宝物だった/
  そんな最期の夜の合い言葉「さあさあ おまかせ もう寝よう」・・・。

 本日の聖書は、宣教の第一歩として、イエスがガリラヤ湖畔で四人の弟子を得て、それに続いて多くの病人を癒された箇所です。弟子たちも「さあさあ おまかせ もう寝よう」となるのでしょうか。イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられるときにペトロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレに出会いました。
 イエスが彼らに、「わたしについて来なさい。人間をとる猟師にしよう」と声をかけられると、彼らは直ちに網を捨てて従いました。また、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが父と一緒に網を繕っているところに同じように声をかけられると、ペトロたちと同様に、父と舟を捨ててイエスに従いました。これが、いわゆるイエスの一番最初の弟子が生まれた出来事です。そして、イエスは弟子たちとガリラヤ地方を回り、様々な場所で福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気の人々を癒されました。イエスの評判は、ガリラヤのみならず、ユダヤ全土に広まり、イエスのもとに大勢の人々がやって来て、イエスに従ったのでした。私たちも教会の門をたたいて、イエスを救い主として崇め、自分の生涯をイエスと共に歩もうと決心した時がありました。そのことを思い起こしながら、本日の聖書をご一緒に考えてみたいと思います。
 ノートルダム聖心学園理事長の渡辺和子さんは、ご自身のことを次のように記しておられます。中学校は半ば強制的に四谷の双葉学園に入学させられたものの、渡辺さんは私服で卓球場に入ったり、不正乗車で補導されたりの好ましくない生徒と見なされていました。渡される通知簿には成績の他に「操行」の点がついており、平素の行いは優良佳の順で付けられていますが、中学一、二年生のそれは「佳」の一番悪い評価でした。
 そんな渡辺さんを案じた母は校長のシスターに暑中見舞いを出すように促し、渋々それに従いました。ところが数日後、その形ばかりの葉書に対して、「和子さん、よい夏休みを過ごして、早く学校へ戻っていらっしゃい」の返事が返ってきました。少人数の学校ゆえに渡辺さんの悪事が校長の耳に入っていないはずはない。彼女はこの一枚の葉書で、「どうでもいい私」から「どうでもよくない私」に変わったのでした。この葉書に込められた愛は、更に、その後自らもシスターになり、教職についた渡辺さんをして、名前でよばれ、受け入れられた渡辺さんは、学生一人ひとりを名前で呼び、学生からの手紙にどれ程忙しくても返事を書く人間にしてくれたと言われます。
 その恩師が三〇年程前のある朝、授業に行く途中倒れました。見舞いのため病室を訪ねた渡辺さんが見たのは、ベッドの傍らに出席簿を開いておき、ロザリオを不自由な指でつまぐっている姿でした。「どうして出席簿を病院に」といぶかる渡辺さんに、「今は、私がこの生徒たちを教えるはずの時間なの。だから、一人ずつのため、名前を呼んで祈っているのよ」。(「目にみえないけれど、大切なもの」より)
 さて、ペトロやアンデレたちがイエスの弟子になる経過はそれぞれの福音書によって異なっています。例えば、ルカでは、夜通し漁を試みたが、何ひとつ取れなかった漁師ペトロが疲労と失望とで網を洗っていると、そこにイエスが通りかかり、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」の言葉に従ってそのようにしたところ、おびただしい魚の漁に驚き、イエスに従って弟子になったというお話です。
 また、マルコ福音書は、マタイと同じ経過をたどっています。すなわち、シモンと呼ばれたペトロと兄弟のアンデレは海に網を打っているとき、またもう一方、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとは、父親と一緒に網を繕っているときでした。どちらも、自分の仕事に励んでいました。そんな彼らに、イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけて招きました。そして、シモン・ペトロとその兄弟アンデレとは、またゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは、「イエスに従った」のでした。この物語は劇的というか、唐突なものを感じます。と言いますのも、まったく面識のない、見ず知らずのイエスの一言、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉で、すぐに従ったことです。多分にしてイエスの顔をじっくり見据えて、ペトロたちがイエスに従ったとは到底思えないのです。しかし彼らは躊躇することなく、即座に応答しています。聖書は多くを語ろうとはしません。シモンや他の人たちは、自分の人生にかかわることを余りにも単純に、いとも簡単に決断してイエスに従っています。それも何か魔術にでもかけられたかのようにです。何が彼らの中に起こったのでしょうか。
 聖書を見てみますと、シモン・ペトロとその兄弟アンデレに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われると、「二人はすぐに網を捨てて従った」とあります。また、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも同様の招きを告げると、「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」と聖書は記しています。
 この「網を捨てて」「舟と父とを残して」という彼らの動作は極めて大切なものを表しています。と言いますのは、彼らが「網を捨てる」ということは、少なくとも自分の日々の糧、自分の人生の将来を自ら手放したということです。また「舟と父を残す」という行為も、自分の財産を自ら放棄してしまうことですし、自分の肉親である父を残して来ることも、ユダヤの律法の第四の戒め、「父母を敬いなさい」に照らし合わせても誉められたことではなかったでしょう。しかし、彼らは自らそれらを手放したのでした。
 彼らが持っていた網や舟や父は、生活の手段であり、生活の手立てであり、命の糧です。これがなければ生きていくことは極めて難しいことです。何をさておき、網も舟も父も手から放すことのできない、つまり掛け替えのないものなのです。ある意味では、ペトロという存在と人格を表すほどのものでもあるのです。それほど大切なものです。
 ですから、イエスから「わたしについて来なさい」の言葉をかけられたとき、ペトロにとっては、自分の人生と何の関わりがあるのか、何の意味があるのかと、無視してもよかったのでした。しかし、彼らはそうせず、意外な方向へと歩み出しました。彼らの命の次に、いや命よりも大切な網や舟、そして親までも手放してイエスに従って行きました。つまり手放さないでしっかり握り締めていることが、彼らの確かさ、生きる保証であったにも拘らず、彼らはそれらの大切なものを、いとも簡単に手放したのでした。
 すると逆に、ここで私たちは、このペトロの姿の中に、それも「網を捨てて」「舟と父親とを残して」の中に、手放さない、捨てないという決断以上に大きな決断を見ることになります。そこには、これまでの経験や実績を放棄しても、なお余りあるそれ以上の大きなものがあるということなのでしょう。その確かさが彼らの中にあったということです。ここには、大きな飛躍があります。埋めても埋め尽くすことのできないものです。これを人は信仰と呼びます。私たちの目には不確かさに見えるものが確かさになるということなのです。
 先ほどの渡辺和子さんに届いた、「和子さん、よい夏休みを過ごして、早く学校へ戻っていらっしゃい」の返事は、「どうでもいい私」から「どうでもよくない私」に変えました。それは、名前で呼ばれ、受け入れられた渡辺さんに自分の生涯をシスターとして歩み出させるほどの大きな出会いでした。私たちが、一人ひとり自分の世界にこだわる限り、またそれを手放さない限り、悲しみと苦しみの中で、出口を見い出すことなく生きる者となるでしょう。イエスの「私について来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」の言葉は、まさに、「さあさあ おまかせ もう寝よう・・・・」ということであり、自分の手の内の確かさでなく、神さまの手の中に身を任せた人生となる確かさなのです。
 私たちもまだ見ぬ自分の人生を神さまに任せて、感謝をもって歩んでまいりましょう。

 


 


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2005/01/23(日) 11:00:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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