津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神のことを思わず」(マルコ8:27~38)中川俊介牧師
マルコ8:27-38、2006・9・24
聖霊降臨後第16主日―(緑)―
イザヤ書50:4-11、ヤコブの手紙2:1-18

マルコによる福音書8:27~38

 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神にそむいたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」



  説教「神のことを思わず」(マルコ8:27~38)中川俊介牧師

 今日の日課の中に出てくるイエス様の言葉は、私たちの常識的な考えでは、すこし厳しすぎるのではないかなと感じないではいられない部分もあります。ペトロは自分なりにイエス様の事を心配して忠告したのに、返ってきた言葉は「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」、だったのです。これが、実はすぐその前に、ペトロがイエス様は救世主であると信仰告白して、いわば、模範解答した後なのですから、その落差というのでしょうか、評価の差があまりにも大きいのです。何故でしょうか。
 おそらく、イエス様はここで、当時のペトロがまだ強くもっていた人間的考え方というのでしょうか、罪ある人間の考えに基づいた率直な意見と、神の国の思考方法を対比させているように思えます。神の福音が示されるというのは、人間的視点と神の世界の視点の違いがはっきりさせられた時ではないでしょうか。そうでないと、私たちはいつも自分の世界の延長線上に神を想定しがちでしょう。
 例えば、神の善を考えてみましょう。私たちが人間的思考の延長で、その善を考えるなら、どこかで知っているよい人、つまり、善意の人を考え、それをどんどんどんどん拡大します。つまり最高に優しく最高に丁寧で、最高に献身的で、最高に気前がいい存在を神と勘違いしやすいのですね。
 しかし、神というのは、私たちの思考を超えています。旧約聖書のヨブ記にも、神のみ業は、私たちの知識を超えていると書かれています。
 ちなみに、ルターは、「仲間を赦さない家来の譬え」についての説教で、人間的考えと神の考えの根本的な違いについて次のように述べています。
 「そこで、私たちは神の国と人間のそれとを、厳密に区別しなければいけない。人間の国では、罪が叱責され、人間の権利が当然のように求められる。反面、神の国では、罪は赦され、人間の権利の要求には寛容さが求められる。神が福音をもって統治される神の国では、権利要求も義務要求もなく、あるのは、純粋の赦しと、慈しみ、そして、恵みを惜し気もなく分け与えてくださることなのである。そこには、怒りも処罰もない。あるのは、真実の兄弟愛、そして、相互への助け合いである。」
 これを聞いて、その通りだと思えるのなら、私たちの考えは、あの時のペトロ以上ということでしょう。
 でも、私たちに、本当の意味でわかるのでしょうか。何故、神が人間のように罪を叱責せず、七の七十倍もの数、つまりこれは無限にという意味でしょうが、そこまで赦し続けるのか。
 まあ、しかし、この辺をごちゃごちゃ考えるのは今はやめましょう。ルターも、賢人は高尚な知識を求める。しかし、人々に、人が救われる道を教える方が大切だと述べています。今日の聖書の個所で、私たちは知識を増やすのではなく、救いの手がかりを得たいという点に焦点を当てたいものです。イエス・キリストという方が、人間的な発想法、人間的な解決手段しか持っていなかったあのペトロを導き得た、ということは、イエス様の言葉によって、私たちも救いの道に導かれる可能性があるし、現在、どんなに人間的な限界をもっていたとしても、きっと神は救いを用意してくださっているんだ、というところに私たちの慰めがあるんではないでしょうか。
 その救いの道を知るという、本題に入る前に、今日の他の日課は、福音書にどういう光を当てているでしょうか。はじめに、イザヤ書です。ここでは、人間が闇の中を歩くときも、光のないときも、自分の光に頼っているとあります。イエス様が言われた、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」、これと全く同じです。当時の人々も宗教行事は行っていたでしょうが、そこには人間の声ばかりが満ちて、神の声は聞かれていなかったということですね。宗教改革のころだって、そうですね。大体、お金を出せば、罪を赦してもらえる免罪符というのは、神の声ではなかったのですが、聖書から真剣に聞こうとしていた少数の人をのぞいて、ヨーロッパの大多数の人は、当時の教会が唱えていた人間の声に従っていたと思われます。
 おそらく、現代の教会の私たちも、神の声を聞かずに、人間の声のほうを聞き、自分の光で闇を照らそうとしているに違いありません。ただ、それは、ペトロの場合もそうでした。でも、私はある面で安心しています。神さまが真実の福音を示してくださるとき、私たちの過ちもきっと訂正されるだろう、そう確信します。そう思えることも、恵みですね。そうでないといつも、脅えて生きていかなくてはならない。宗教裁判が当然のこととして行われ、今から考えると無実としか思えない多くの人々が犠牲となった中世のヨーロッパに戻ってしまいます。
 次に、使徒書の日課は何を伝えているでしょうか。ヤコブの手紙です。ここでも、教会に来た人の扱いについて、「あなたがたは、誤った考えに基づいて判断を下している」と書いてあります。困りますね。また同じですよ。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。この言葉そのものです。私たちの社会がこんな状態で、教会でさえ、人間的な価値判断に束縛されているなら、ルターが言うような、人の救われる道はどこで示されているのでしょうか。
 やはり、私たちは、ルターがそうであったように、聖書に向かわなくてはならない。もちろん、現代の日本では、三浦綾子さんや遠藤周作さんの本も書店で手に入る。難しい神学書だって読める。ただ、その中にも人間的な考えが入っている。どんなに私たちが感動しても、それは、聖書ではない。そして、その聖書も教会という神が定めた共同体の中で福音的に読まれなくては、やはり、人間的な解釈に陥る危険もある。なぜかというと、アウグスブルク信仰告白にあるように、教会こそ、その中で、福音が純粋に説教される場所だからです。
 そのことをふまえながら、マルコ8章34節の「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」を見てみましょう。この個所をどうしたら、純粋な福音として聞くことができるでしょうか。難しい点です。中世のカトリック教会は、これを福音ではなく律法として聞いたようです。キリスト教だけでなく、多くの宗教が、救いを手に入れるにはまず難行や苦行を自分に課さなければいけないと教えるのではないでしょうか。
 ドイツでは、ルター、日本では親鸞などが、これを懸命にやってみて、越えられない限界の壁に突き当たっています。自分の虚栄心やプライドからは解放されないんです。苦行は役に立たないんです。ですから、この部分を律法として聞く限り、救いの道は見えてきません。
 ただ、ペトロの人間的な弱さ、私たちの人間的な弱さを知っているイエスさまが、自分の努力で救いを勝ち取れ、と言われているのなら、論理的に矛盾しています。それはあり得ない。イエスさまは、違う意味で言われたに違いない。
 そう思って、ギリシャ語の原点を詳しく見ていたら、捨てるという言葉の原形は、アルネオマイという言葉で、自分の考えに対して「そうではない」とはっきり言うこと、あるいは、その意見を否定することなんです。専門の注解者の解釈をあとで調べてみましたが、やはり同じですね。そうだとすると、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」という、前に出てきたイエスさまの言葉としっかり論理的に一致するんです。そのように、自分の意見を絶対化するのを止め、自分に対して「そうではない」とはっきり言いなさいという勧めなんです。
 そして、自分に与えられた十字架を逃げないで、背負っていくこと。これで、思い出すのは、「炎のランナー」という映画です。これは、パリで開催されたオリンピックの短距離で優勝したイギリス人、エリック・リデルという実在の人をモデルにしているんです。
 エリックの両親がキリスト教の宣教師で、本人も信仰心が厚かった。ところが、オリンピックの百メートル走競技の予選が日曜日に開催されることになってしまった。エリックは、神を第一にして、礼拝に出ようと思い、予選を棄権することにした。ところが、彼を説得しようとするオリンピック委員会の首脳部とイギリス皇太子に呼び出されて、意見を求められた。彼は本当に迷ったのですが、やはり、神を第一として棄権した。ところが、神は、彼を助けたのですね。ハードル競技で銀メダルを既に取った友人がエリックに四百メートル走の権利を譲ってくれた。もともと、百メートルの選手でしたから、無理はあったんですが、エリックは、神にすべてを委ねて、死力を尽くして走った。そして本当に優勝したんです。神の声を聞くことが、奇跡を生むことがあるんだなあと痛感した映画でした。後日談になりますが、その後エリックは、中国に宣教師として赴任し、大変よい働きをしたのですが、苦労が重なって、中国で亡くなったそうです。中国人は彼のことをいつまでも記憶にとどめたそうです。本当に、信仰においても「炎のランナー」だったんですね。
 私たちの人生も同じだと思います。神は、私たちに、十字架を負う機会を与えておられる。私たちは、自分の声のみを聞いて、逃げることもできる。旧約聖書に出てくるヨナがそうでした。でも、神はそんなヨナに対しても、恵み深かった。私たちの十字架は私たち自身の問題かもしれない。あるいは、家族や仕事や教会のための重荷かもしれない。でも、そこに、必ず神の語りかけがある。それは、愛と光に満ちた救いを指し示している。これに聞きなさいということでしょう。私たちは、ここをいつも聞いていきたい。確かに、霊的に鈍いときもある。信仰もくすぶるときもある。でも、中心は自分ではない。自分の言葉でもない。神の恵みの言葉です。それは、ペトロが否定したかった、キリストが私たちの罪のために、受難され、十字架にかけられ、復活された。この尊い言葉です。
 最後に、8:38節で、「この言葉を恥じる者は、私もその人を恥じる」と書いてありますが、この恥じるという意味は、幻滅する、失望するという意味です。ですから、ここにも福音が聞こえます。どんなに十字架が困難でも、失望しないで、信じ続けなさいと、聖書は私たちを心から励ましています。神の言葉を信じていきましょう。最後に、ルターをもう一度引用させてください。「そこで、私たちは、神の国と人間のそれを、厳密に区別しなくてはいけない。人間の国では、罪が叱責され、人間の権利が当然のように求められる。反面、神の国では、罪は赦され、人間の権利の要求には、寛容さが求められる。神が福音をもって統治される神の国では、権利要求も義務要求もなく、あるのは、純粋の赦しと、慈しみ、そして、恵みを惜し気もなく分け与えてくださることなのである。そこには、怒りも処罰もない。あるのは、真実の兄弟愛、そして、相互への助け合いである。」
 キリストが罪深い私たちの赦しのために、受難し、十字架につけられ、罪と死の力を滅ぼして、復活され、私たちの救いの基いとなってくださったこと、ここに、神だけが語る純粋な福音がある。この福音が、皆さんの血となり、肉となり、人生そのものとなる、走約束されている。それを信じましょう。まだまだ、人の声が騒がしいです。神の声を、教会が語る純粋な福音の宣教のなかで聞きましょう。アーメン。
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2006/09/24(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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