津田沼教会 牧師のメッセージ
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「旧約預言の実現」(マルコ7:31~37)
マルコ7:31-37、2006・09・17、聖霊降臨後第15主日(緑)
イザヤ書35:4-10、ヤコブの手紙1:19-27

マルコによる福音書7:31~37
 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」


説教「旧約預言の実現」(マルコ7:31~37)

 私たちは、マルコ福音書を通して、特に聖霊降臨後、主イエスの語られたお言葉となされた働きを主日ごとに聞いてきましたが、本日は既に聖霊降臨後第15主日となっています。先週は、主イエスが、ティロスの地方にまで出て行かれ、だれからも知られたくないと思っておられましたが、隠れていることはできず、悪霊につかれた幼い娘のために、主イエスの前にひれ伏し、どこまでも引き下がらなかった母親の信仰に打たれて、離れた地から悪霊を追い出された出来事が福音の記事でありました。
 さて、本日は、それに続く記事であります。「そしてまた、彼はティロスの地方から出て行かれ、シドンの地方に行かれた、そして、デカポリスの真ん中をガリラヤ湖へとやって来られた」というふうに、本日の記事は始まっています。ガリラヤの西の地方をティロスから30キロ以上も北上し、それから、ガリラヤ湖の東側の地方をぐるっと遠回りして、デカポリスという異邦人の多い地方の真ん中を今度は北上してガリラヤ湖にやって来たのであります。文脈から考えましても、それは異邦人が主である地であったと考えられます。
 さて、すると、人々が、彼の所に、耳が殆ど聞こえないで、しかも、言葉を出すのが非常に困難な人を連れて来て、主にその男に手を置いてやってくださるようにと嘆願するのであります。
耳が聞こえにくい、また、ものが言い難いということは、本当に辛いものであります。多分、ここに出てくる人々、彼らは異邦人たちであったと思いますが、主イエスの名声を聞いていて、ここでも、主イエスは知られずにいることができず、集まってきたのでありましょう。
 主は、この人を群衆から連れ出し、両耳に手を差し入れ、唾をして、それでもってその人の舌に触れたのであります。このような療法は、当時のヘレニズム世界やユダヤ人たちにもよく知られていたものであり、特に唾には特有な癒す力があるものと考えられていました。しかし、そのような当時の、また、現代の心理療法的な処置と違うのは、主が天を仰ぎ見、神に祈りつつ、深いため息をつかれた点であります。ため息をつくというのは、嘆き、もだえ、うめく、というような深い意味を持つ言葉であります。主イエスは、私たちに対しても、共感して、うめき、もだえながら、とりなしの祈りを今も天からなしておられるのであります。
 それから、主は、アラム語で「エッファタ」すなわち、「あなたは開かれよ」と言われました。その人と人格的に深く向かい合って、治療による奇跡の働きをなされたのであり、その人は、そのとき強い信頼を主に寄せていたのであります。すると、彼の聞く器官は開かれ、その舌の縛られていたところは、ゆるめられ、その人は、普通にしゃべりだしていたのであります。彼は生まれつきの耳の聞こえない人、また、生まれつき、ものが言えない人ではなかったようであります。
 主は、彼らにこのことをだれにも言わないように命じました。しかし、主がそういうふうに命じれば命じるほど、人々はますますかえって盛んに、「告げ広めていた」のであります。異邦人であったであろう彼らが、説教をし、福音を宣べ伝えていた、ということが起こったのであります。主が、この癒しをなさったのは、見世物にするためでは決してなかったのであります。この沈黙命令は、主イエスがどういうメシアであるかを知らしめるまで、すなわち、十字架の死を遂げるまで、繰り返し主が、奇跡を起こしたときになされたものであります。
 人々は、計り知れず、圧倒されていました。そしてこう語ります。「見事にすべてのことをこの方はなさった。聞こえない者たちを聞こえるようになさり、しゃべれない者たちを話せるようになさるのだ」と。天地創造のとき、主なる神がすべての被造物を造られて、それを御覧になって、その目にすべてが適っていたというのに通じるところであります。
 本日のこの出来事は、イザヤ書35章の5、6節に直接つながっています。他にも似たような言葉が預言されているものがありますが、言葉とその意味においてはイザヤ書に最も近いのです。それは、終末の日にもたらされるメシアの訪れを預言しています。それらの預言は、直接的には、バビロン捕囚からのイスラエルの民の帰還を預言したものでしょう。けれども、それは同時に、この世界の終わりのときに、どうなるかが預言されているのです。それはこう書かれています。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が沸きいで、荒れ地に川が流れる。」
 終末の時とは、最後の審判と死と天国と地獄の四つが示されるときでありましょう。しかし、主イエスにおいて、この異邦人たちの間で、本日の癒しの奇跡の出来事において、終末がいわば実現しているのであります。私たちの耳も主の言葉をはっきりと聞き取り、また、私たちの口もはっきりと、主イエスにおける救いの実現を証しし、説教し、福音を宣べ伝える者となるように、すべての人が招かれているのであります。祈りましょう。
 天の父なる神さま。
私たちは、それぞれ、弱さを負った土の器にしか過ぎません。しかし、あなたは、主イエスを、私たちに与え、その十字架と復活を通して、あなたの栄光を現されました。異邦人であった私たちが、あなたの栄光と尊厳を告げ広めることができるようにしてくださいまして、有難うございます。私たちはしばしば、自己の弱さに負けてしまう者でありますが、主イエスのお言葉と御働きを通して、慈しみによって私たち一人一人をあなたのことを宣べ伝える良き器とならせてください。キリストによって祈ります。アーメン。

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
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2006/09/17(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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