津田沼教会 牧師のメッセージ
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「五千人のパン」(マルコ6:30~44)
マルコ6:30-44、2006・08・20、聖霊降臨後第11主日(緑)
エレミヤ書23:1-6、エフェソ2:11-22

マルコによる福音書6:30~44
 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らよりも先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。


説教「五千人のパン」(マルコ6:30~44)
 マルコ福音書は、4つの福音書の中で最も古く、最初に書かれた福音書と考えられています。本日の「五千人のパン」の出来事も、他の三つの福音書と比較してみるとき、その中で最もオリジナルな記事であることが窺えます。それをいちいち今取り上げることはできませんが、帰られてから、新共同訳聖書にあげられています並行記事を、一度読み比べてみることをお勧めします。
本日は、マルコの記事をもう一度思い起こしながら、本日の記事に書かれていることの意味についてしばらくご一緒に考えてみましょう。
 まず、マルコ6:30-34と6:35-44とに本日の内容は分けることができましょう。使徒たちは、集められ、そのなしたこと、教えたことを皆、主イエスに報告します。彼らは使徒たちと呼ばれています。マルコでは、12使徒の選出の記事を除いては、ここだけでしか、「使徒たち」という呼び方はされていません。彼らは、主イエスの使者として、説教し、悪霊を追い出し、あるいはいやしの働きをしたのであります。主イエスは出入りする人たちが多いので、彼らにしばらく休むようにと優しい言葉をかけます。彼らは、食べる暇もなかったのであります。それで、密かに、彼らだけで舟に乗って寂しい場所、あるいは、荒れ野の場所とも訳せますが、そういう場所へと出発します。ところが、多くの人々は、それを知って、陸路で、イエスの一行よりも早く、すべての町から一緒に駆け出し、寂しい場所に先に着くのであります。主イエスは、人々が飼う者のいない羊どものようであるのを、舟を下りて御覧になり、憐れまれるのであります。
これは、腸がうずくという意味の言葉で、神と主イエス以外にはまず使われない言葉であります。私たちを神とみ子イエスは、今も腸がねじれるような思いで御覧になっておられるのであります。そして主は、いろいろと詳しくお教えになっておられました。
そして、いよいよ、6:35-44の記事に移るのであります。彼の弟子たちは時もだいぶたったので、イエスのもとに来て言います。「彼らを解散なさってください。時もだいぶたちました。彼らはそうすれば、里や村に行って、何か食べ物を買い求めることができましょう」と。しかし、主は言われます。「あなたがたが、彼らに食べることを与えよ」と。
弟子たちは、「私たちが行って200デナリオン、200万円ものパンを買って来て食べさせるのでしょうか。」弟子たちは、不平を言います。しかし、主イエスは、「あなたがたはどれだけパンを持っているのか、行きなさい、見てきなさい」と答えられます。彼らは行って確かめ、「5つです、それと、魚を2匹と」、と言います。主は、弟子たちに命じて、組になって、青草の上に食事のために横にならせるように、命じます。人々は、100人ずつ、50人ずつ、まとまって食事のために場所を取ります。
主は、パンと魚を取って、天へと目を上げ、賛美の祈りを、すなわち、感謝と賞賛を神に表し、パンを裂いて、弟子たちに与えておられました。そして弟子たちは人々に分け与え、また、主は、魚をもすべての人に分配なさったのであります。そして、彼らは皆、食べ、満腹したのであります。そして、パン屑と魚の残りを集めると12籠一杯になったのであります。そして食べた者は男5千人であったというのであります。
これは、何が起こっていたのでありましょうか。この出来事は、荒れ野における出エジプトの民を思い起こさせます。彼らは、不平を言ったとき、天からマナによって、飢えを満たすことができたのであります。
しかし、主イエス御自身こそが、まことの天からのパンであります。出エジプトの民が日々必要に応じて満たされたように、私たちもまた、この五千人のパンの出来事を体験することができます。すなわち、主イエスのなさった動作は、受難と死を前にしての聖餐の設定辞と殆ど同じ言葉が用いられています。この時、弟子たちも、群衆も、このパンの奇跡の意味を理解することはできませんでした。
しかし、後になって、教会の時代になって、この日の出来事の意味を理解していったのだと思います。私たちは現在も聖餐式のたびごとに、また、毎週の礼拝のだびごとに、本日のパンの奇跡の出来事を思い起こし、体験すことができます。
できる限り毎日、このパン、そしてまことの命のパンである主イエスとそのお言葉を、また、聖書のみ言葉を食べること、それによって、私たちは養われることができます。弟子たちは、その意味についてその時、理解できませんでした。そして、この後も、水の上を踏み歩く主イエスを見ておびえ、彼らの心は鈍くなっていて、パンの出来事を理解していなかったのであるとマルコは記しています。主イエスは、朽ちることのないまことのパンであります。救い主として、このとき、お出でになられていた方であります。聖書は77巻すべて、この救い主、メシアがお出でになることを約束しているものであります。この主の体であるパンを、毎週いただき、さらには毎日、日ごとに、み言葉をいただいて、日ごとに新しい人とされて、家庭で、職場で、地域で人々にキリストを証ししながら、歩んでいきましょう。祈ります。
 天の父なる神さま。
なかなか、悪い癖から抜ききれない弱い僕でございます。しかしあなたは、み子をくださり、私たちを、根本から新しい人に作り変えてくださいます。どうぞ、あなたの憐れみによって、新しい人生をやり直させてください。キリストによって祈ります。アーメン。









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2006/08/20(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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