津田沼教会 牧師のメッセージ
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「この世界に派遣されて」(マルコ6:6b~13)
マルコ6:6b-13、2006・08・13、聖霊降臨後第10主日(緑)
アモス書7:10-15、エフェソの信徒への手紙1:3-14

マルコによる福音書6:6b~13

 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物を履くように、そして、「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。


説教「この世界に派遣されて」(マルコ6:6b-13)

 主イエスによって、私たちは、この世界へと派遣されて生きている者であります。本日は、マルコ福音書の6章6節後段から13節までを、福音として与えられています。現代の私たちに対してそれが持っている意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 最初の、6章の6節bは、主がナザレ伝道で失敗した結果、やむをえず、来たした状態なのか、それとも、私たちの用いている新共同訳聖書が、位置づけているように、十二人の宣教のための派遣に属する文として、マルコか、あるいは別の編集者が新たな出来事として、始まりを示すものなのか、学者にも争いがあります。どちらとも取りうるのですが、ナザレの伝道における失敗とは、別の新たな展開を示すものとして、私たちに与えられているペリコペーにあるとおりに、6章の6節後段から13節までとして、考えていきましょう。
主イエスは、周りの小さな町、あるいは村々を、お教えになりながら、経巡り、旅をしておられたのであります。そしてその時、十二人を召集し、彼らに汚れた霊、不浄の霊どもに対する権能をお与えになりながら、二人ずつにして、派遣することをお始めになっておられたのであります。この私たちの住む世界は、残念ながら、汚れた霊ども、不純な霊どもの潜んでいる世界であります。それは、アダムとイブの堕罪のあと、そうなっているのであります。そして、主イエスが十字架におかかりになり、私たちを罪の奴隷から解放してくださった後も、汚れた霊がなくなるということはなく、私たちはそれに対して、用心し、戦わねばならないのであります。私たちが、聖書のみ言葉によって、悪霊を追い出し、祈りと礼拝とによって、あるいは、説教を聞き続けることによって、それらに、打ち勝って行くことができるのであります。
 さて、主は以下のように、彼らにお命じになりました。それは、パンも、袋も、―これは、ずだ袋、僧たちが今日でも時々、人々の行き交う場所に立って物乞いをしてお経を唱えたりしているのを見かけますがー、そういう袋も持たず、杖、護身用の棒とサンダルを履くことは別ですが、それ以外には、帯に銅貨も持たず、飲み食いよりも、宣教に、伝道にのみ専心するように、戒められたのであります。本日の個所は、非常に徹底していて私たちを困惑させるものなので、これは後になって、教会が主イエスの口を通して、そのあるべき伝道の姿を示したものではないかという学者もいます。けれども、この緊迫した調子の中での言葉は、主イエスの語られたものに違いないのであります。マルコ福音書では、杖とサンダルは認められていますが、マタイやルカではそれも認められていません。ローマの世界に向けて書かれたマルコ福音書においては、杖とサンダルなしには、宣教旅行は考えられなかったからでありましょう。また、「下着は二枚はあなたがたは着てはいけない」と禁じています。ここには必要なものは、神によって必ず備えられるという強い確信があります。私たち現代のキリスト者も、聖書一冊を携えながら、必要最小限度のもののみをひっさげて、家族に、地域に、職場に、主イエスのお教えを告げ広めたいものであります。
 次に、主はまた、こう言われていました。「ある家に入ったなら、そこを出るときまでその家にとどまりなさい。場所があなたがたを歓迎せず、人々があなたがたに耳を傾けなかったなら、そこを出るときに、彼らへの証しとして、足の下の塵を振り払いなさい」と。これは、呪いのしるしではなく、警告の言葉であり、人々が十二人に聞かなかったのは、主イエスに聞かなかったことになるのであり、弟子たちの失敗は、主イエスの失敗であることを、主は派遣に先立って彼らに保証してくださっているのであります。
 彼らは、人間的才能などに頼るのではなく、ただ一人、主イエスのお言葉に従って全力を尽くせばよいのであり、後の結果は、主イエスがすべて引き受けてくださるのであります。
このような主イエスの指示に従って、彼らは出て行き、使信を宣言します、すなわち、人々が悔い改めるように、勧めるのであります。「悔い改める」というのは、「心の向きを変える」という意味の言葉が使われています。心を神に向けるように人々に説くのであります。私も1週間の休みをいただいて、家族で旅行し、親戚や実家に帰ったりしてきました。主イエスの福音、すなわち、主イエスという良い知らせ、また、主イエスによってもたらされる良い知らせを、十分に伝えることができたかと言えば、必ずしもそうではなく、恥ずかしい思いにさらされます。何と、主イエスのお言葉から、また、全聖書のみ言葉から、離れやすく、牧師として恥ずかしい生活にひきづられ安いことでしょう。
 さて、しかし、最後に彼らは、多くの悪霊どもを追い出していましたし、病人たちにオリーブ油を塗っていました、そして彼らは、いやしの業を果たしていたと、本日の個所は締めくくられています。主イエスが教えたように、十二弟子たちも教えることができたのであり、それは、言葉だけの教えではなく、行いによる教えでもあり、悪霊を追い出し、病人をいやすという力を持った働きができていたのであります。
 この十二弟子たちの働きは、私たちにも同じようにできると主イエスは今も約束してくださっています。そして、今は、主イエスは、天の父なる神の右に座して、聖霊を送って私たちを励ましておられます。私たちは絶望することなく、新しい人となり、キリストをこのわが身の上にまとって、新しい歩みを、ここから、踏み出していきましょう。祈ります。
天の父なる神さま。
この世界は、争いと憎しみが現存し、悪魔は、私たちを、み言葉から引き離そうと、猛り狂っています。私たちはそのことをしばしば忘れ、あなたのみ言葉から迷い出してしまいます。どうか、上からの聖霊の力によって、私たちが汚れた霊によって支配されることからお守り下さい。そして、周囲の出会いますすべての人々に、罪からの解放者、主イエスを言葉と行いにおいて、力強く宣べ伝えることができますように。キリストによって祈ります。アーメン。

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2006/08/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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