津田沼教会 牧師のメッセージ
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「癒し、そして死の克服」(マルコ5:21~43)
マルコ5:21-43、2006・07・30、聖霊降臨後第8主日(緑)
哀歌3:22-33、二コリント8:1-15

マルコによる福音書5:21-43
イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
 大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのままに話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子たちだけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩き出した。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。


説教「癒しと死の克服」(マルコ5:21~43)
 
私たちは、このところ、主イエスの譬え話から、奇跡物語に移っています。嵐の海で波風を静めるという奇跡の後で、東岸のあるゲラサ人に取り付いていた悪霊を追い払うという奇跡の後の、12年間長血に苦しんでいた女の人の病気、これは、鞭という意味のことばですが、それを主がお癒しになるという3番目の奇跡と、そして、頂点ともいえるヤイロの娘を再び死から起き上がらせる、これは、復活させるということまで意味しているのでありましょうか。そういう4番目の奇跡の出来事、そのふたつが、本日与えられています福音書の奇跡物語であります。
 それを、順を追って、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。もう一度、本日の出来事を思い起こしてみましょう。主は、向こう岸に、舟に乗って渡られます。そして湖のほとりにおられました。おそらく、カファルナウムの辺りではなかったかと思います。大勢の群衆が主のもとに集まってきていました。そして、そこに、会堂長の一人のヤイロという人がやってきてひれ伏し、嘆願するのです。「私の小さい娘が終わりの時を持っています。どうか、やって来て、彼女の上に両手を置いてやってください、そうすれば、彼女は救われ、生きるでしょう」と。会堂長とは、会堂での礼拝の指揮や監督をし、また、会堂の管理もするという名誉な地位にある者であります。その一人のヤイロが、そのような名誉な地位とか威信をすべて投げ打って、神の子とうわさされている主イエスのもとに、希望のすべてをかけてやってくるのであります。私たちも、自分に過剰な自信を持っていたり、自分の力に依存して行く間は、救われることはありません。自分の力のすべてをむなしくして、主イエスのもとにひれ伏すことが、第一であり、そして、それが、毎週の礼拝に集まる理由でもあります。
 主は、何も言わずに、彼と共に出発します。大勢の群衆も、弟子たちも一緒に押し合いながらやって行きます。そこに、別のエピソードが起こり、加えられています。これは、マルコが良く使うサンドイッチのように、真ん中に別の話を入れるやり方でもありますが、ここでは、ペトロが目撃した記憶すべき出来事をそのまま載せていると素直に読んでいいでしょう。すなわち、12年間も長血を患っている女の人がいました。彼女は、多くの医者に財産を使い果たし、医者周りをしましたが何の役にも立たず、かえってますます悪くなるだけでありました。長血を患うということは、旧約の律法では汚れた者であり、人々との交わりもろくにできなかったのであります。
 彼女は、そんな中で、主イエスに信頼を強く抱き、この時群衆にまじってやって来て、後ろから、その衣に触れ、上着のどこかをぎゅうと握り締めたに違いありません。その時、彼女の血の源は乾き、癒されていることを、自分の体で感じました。ところが、主は、自分から力が出て行ったことを察知し、誰が私に触れたのかといわれます。弟子たちは、こんなに群衆が押し合っているのに、誰が触ったのかというのですかとなだめようとします。  
 しかし主イエスは、誰が触れたのか群衆の中を、見回しておられました。その女の人は、恐ろしくなり、ふるえながら、自分の身に起こったすべての真実を、み前に出て申し出ました。主は、12年間も、人々からも交わりを絶たれて暮らしてきたこの女性に言われます。  
あなたの信仰があなたを救った。平和へと出て行きなさい、そして、あなたの病気、―それは鞭と言う字で神の刑罰が病気だと当時は考えられていたのですが、その女性に声をかけー、その病気から今からは守られて健康でいなさい、さようなら」と神との交わりに招きいれ、励まして送り出したのであります。神の力が、イエスさまを通して働くのであります。そして、罪から、肉体も心も癒されるということが、一番大切であり、主はその女の人の主イエスへの類まれな信頼に応えられ、それを公にして、彼女をみんなの前で励ましてその信仰を救い主に対する確かなものにして、新しい人生へと送り出されたのであります。
 さて、主がお語りになっている間に、会堂長のもとから、人々が来て言います。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もはや、先生を煩わすことはないでしょう。」主はそれを耳にして言われます。恐れるな、ただ信じゆだねよ。ヤイロは、つい先ほど、女の人が癒され、その信仰に対して、主が語りかけられた言葉を、驚きをもって聞いていたことでありましょう。律法よりも、むしろ、このお方にのみ、望みがあると、確信させられていたことでしょう。主は、3人の弟子たちだけを伴うことを許し、やがてその家に着きます。大声で騒ぐもの、泣くもの、それらを見て主は言われます。「なぜ、嘆いているのか、泣いているのか、その子は、死んだのではない、眠っているだけだ。」不思議な言葉であります。私たち人間にとって、死ほど悲しいことはありません。主もそのことは十分ご存知であります。しかし、主は、喪で悲しむ人々を追い出し、両親と弟子の3人だけで入り、そしてその子が置かれているところへいかれます。そして、その子の片手を取り、「タリタ、クム」少女よ、起きなさいといわれます。すると、その少女は起き上がり、歩き回り始めます。主は、何か食べるものを与えるようにいわれ、そして、このことを誰にも知られないようにと、重々、命じられたのであります。何も食事らしいものを長らく食べていなかったであろうその少女に対する主イエスの愛の配慮の深さを感じさせる言葉です。
さて、この死人が再び起き上がるということは、復活したということでありましょうか。主の復活の後に、私たちの復活もあるかのように考えがちですが、主の十字架と復活の前にも、ラザロを起こし、ナインの独り息子も死の中から起こしています。主は、神の子として既に生前にそのようなことを起こす力をお示しになったと、マルコや福音書記者たちは思い起こしたのでありましょうか。死は、眠りのようなものであります。神の目には千年も一日のようであり、死というその眠りから起こすことが、主イエスはおできになった、ということでありましょう。神にできないことはなにもないのであります。
確かに死を主によって克服された少女も、父ヤイロも、また、12年間長血を患ったが癒された女の人も、皆、やがては老いたり病んだりして地上の命は私たちと同じように、終えたのであります。しかし、大切なことは、信仰を持って、罪から救われて、新しい生活するということであります。そして、それが私たちに約束されている復活の命を生きるということでもあります。
祈ります。
天の父なる神さま。私たちは、あなたに、全信頼を寄せて生きることがなかなかできません。けれども、本日の奇跡の出来事において示されているように、自分の力に頼ることをやめて、心も体も癒されて、あなたとみ子への信頼を持って新しく生きることをえさせてください。キリストによって祈ります。




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2006/07/30(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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