津田沼教会 牧師のメッセージ
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「波風を静める方」(マルコ4:35-41)
マルコ4:35-41、2006・07・23
聖霊降臨後第7主日
ヨブ38:1-11、二コリント7:1-16

マルコによる福音書4:35~41
 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。


説教「波風を静めるお方」(マルコ4:35~41)
 
日本列島は、現在、梅雨前線が発達して、多くの水害の犠牲者や被害が出ています。改めて、自然の猛威を知らされ、亡くなられた方々のことを思うと、いたたまれない気持ちになります。さて、本日のマルコ4:35-41は、ガリラヤ湖でそのような大自然の猛威に出会った時の出来事を記している奇跡の記事であります。私たちは、今年は、教会暦の三年サイクルのB年として、マルコによる福音書を与えられて、読み進んでいますが、本日の個所も、共観福音書の、マタイ、ルカ、いずれの福音書にも載っています。
絶対にそうだとは言えないのですが、ここでも、マルコの記事が一番、生き生きとしており、おそらく、ペトロの目撃証言に拠っているのでしょうが、具体的に、目で見ているような素朴な文章となっています。それぞれの福音書がそれぞれの特徴を持ち、すばらしいのですが、4つの福音書の中で最も古いと考えられているマルコから、今年は、福音が与えられていることを、改めて嬉しく思います。
 主イエスは、カファルナウムの湖辺で、大勢の群集に向かって、譬えでお教えになり、その日も遅くなったとき、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちにお語りになります。主イエス御自身がリーダーシップをお取りになります。弟子たちは、彼を舟に乗せたまま、お連れします。マルコは、他のマタイ、ルカにはない、彼とともに他の舟どももいたということを記しています。そして、急に、激しい風の嵐が起こります。これはしばしば、ガリラヤ湖では起こることであります。すり鉢状のガリラヤ湖に、北西の方からにわかに突風が吹きつけてくるのです。しかも、この時のものは、嵐には慣れていたはずのついこないだまで漁師であったペトロやヨハネたちにとっても経験したことがないほどのものでした。波が舟に打ちつけ、舟は水で沈まんばかりであります。ところが、主イエスはというと、舟の艫、船尾で、舵取りをするあたりでしょうか、木片か何かを枕にして、眠っていたというのであります。弟子たちは、主イエスを眠りから呼び起こし、言うのであります。「先生、私たちは今にも溺れ死にそうなのに何ともお構いにはなられないのですか」と。主イエスは、起き上がり、風を叱り付けられ、また、海に向かって言われます。「黙れ、静まれ」。この静まれというのは、口輪を付けよという意味の言葉であります。そして、風はやみ、そして、大きな静けさになったのであります。そして、主は言われます。「なぜ、あなたがたは臆病な者であるのか、まだ、信仰を持っていないのか。」そして、彼らは、大きな恐れを恐れ、互いに言っていたのであります。「では、この人は誰なのか、風も海も、この人には従うとは」と。
 一体、この通りのことが、実際に起こったのでありましょうか。自然もまた、主イエスは従わすことがおできになるのでありましょうか。確かに、主イエスが十字架にかかられたとき、神殿の垂れ幕は、二つに裂け落ち、地震が起こったなどということも聖書は記しています。私たちには、考えることができないようなことも、主イエスはおできになられる方であります。
 しかし、ここでは、主イエスが創造主であられる父なる神が私たちを支配しておられることに、どこまでも信頼を置いていたということが記されているのではないでしょうか。そして、この古代の人々にとっては、海、湖、大水は、混沌の世界であり、得体の知れないものであり、また、恐怖や災難や不安、葛藤などを表すものでありました。そして、主イエスをお乗せしたこの舟は、このマルコ福音書の記事を読む人々にとって、教会そのものを表すものとして考えられたでありましょう。
 それから、2000年近くを隔てて、今日の私たちの教会にとっても、沈みそうになっていたこの舟は、私たち自身であります。古代の当時の人々にとって、どうしようもなく、恐ろしい、滅びへと追いやるものが、大水であったように、私たちの信仰生活にも必ず、同様な大きな試練や困難がつきまといます。思い通りに順調には、私たちの信仰生活は進みません。けれども、私たちの舟には、いつも主イエスが共にいてくださいます。主は、父なる神は、私たちを決して滅ぼさない、きっと守り導いてくださると常に信頼を置いておられました。
そして、今も同じで、私たちを見守り、共に進んでくださっているのであります。
 主イエスの時代と違って、科学や文明は一段と発展し、生活は便利になり、多くの人々は、物質文明の中で、宗教はなくても生きていけると考えています。しかし、宗教なしには、そして、聖書なしには、私たちの心の平安、真の平和は決して得ることはできないのではないでしょうか。主イエスの時代から2000年近くたちました現在も、依然として世界には戦争は絶えることなく、憎しみ、争いが続いています。そのような中で、主イエスは、大水や風に向かって「黙れ、静まれ」と今も私たちの傍らで、私たちを見守り、私たち教会につながる一人一人の人生という航海を導き、先立っていてくださるのであります。神のご加護に感謝しつつ、今日からまた新しく出直したいと思います。
ひと言祈ります。
 父なる神さま。あなたは、自然災害において、あるいは、戦争などにおいて、尊い人命が失われることも、現実にありますが、私たちの人間世界のすべてを統べ治めておられます。そして、私たちが、混沌や闇の世界のうちに滅びるのではなく、罪から解き放たれて、互いに愛し合いながら、まっすぐに神と人とに向き合って、生きることを望んでおられます。信仰生活がなかなか思うとおりに進みませんが、主イエスがどんなときにも共にいてくださることを思い起こしつつ、日常の生活を通して、み子による救いを宣べ伝える者としてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。 






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2006/07/23(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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